常設展示(8 葛飾県・印旛県の誕生)

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ページ番号1001832  更新日 平成29年9月15日 印刷

出来事
明治2年(1869) 葛飾県設置。県役所を加村の旧本多家下屋敷に置く
明治4年(1871) 葛飾県を母体として印旛県ができる
明治5年(1872) 加村に郵便取扱所が置かれる
明治5年(1872) 印旛官員共立学舎が常与寺に置かれ、流山学校が開校
明治5年(1872) 印旛裁判所が加村に置かれる
明治6年(1873) 印旛県などが廃され、千葉県が誕生する

1.動乱の時代

近藤勇陣屋跡の写真

 幕末には相次ぐ外国からの開国要求と、開国か攘夷かをめぐる国内の争いの激化、そして民衆の一揆などにより、政情は不安になりました。そうしたなか、この地方に飛地領があった田中藩本多家は、文久3(1863)年、ここ加村に江戸下屋敷を移しました。
 力の衰えた江戸幕府が倒れ、新政府がとってかわる頃には、流山周辺でも、水戸藩の攘夷論の過激派が水戸街道を通ったり、新政府に敗れた旧幕府軍の兵が入ってきたりするなどして混乱しました。この頃新選組の近藤勇が、流山で捕らえられたことは有名です。
 新政府は天皇を中心とし、中央政府は古代の制度にならって、太政官と呼ばれました。

2.県庁が置かれる

葛飾県印旛県県庁後碑

 明治になると、元幕府領や元旗本領は、知県事が支配することになりました。流山市域では、木村は武蔵知県事、ほかの村々は下総知県事の支配となりました。
 そして、明治2(1869)年にそれぞれ小菅県と葛飾県となります。葛飾県は、現在の茨城県と埼玉県の一部を含み、県庁は江戸川沿いのために交通の便がよく、栄えていたこの地に定められ、加村にある空いていた田中藩本多家の下屋敷が使用されました。
 明治4年、葛飾県を母体として印旛県が誕生します。さらに明治6年に千葉県となりますが、それまで一時を除いてこの地に県庁が置かれていたのです。

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