昭和の産業史その8

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ページ番号1013086  更新日 平成29年9月15日 印刷

「流山工業団地」誕生秘話

新川耕地に「アメニティタウン」が出現した

 流山市の北端、利根運河が江戸川に流入する西深井の新川耕地。その広大な流山の優良農地の一角に、世間の常識を破る 工業団地が誕生 してからはや20年経つ。

流山工業団地の全景(平成12年4月22日撮影)の写真
流山工業団地の全景(平成12年4月22日撮影)

 流山工業団地は、総面積約9.5ヘクタール(約3万坪)の20%が緑地なのである。これは従来の工業団地では考えられないこと。平成3年5月31日、工業団地がオープンした時、団地内に、ケヤキ(104本)、ソメイヨシノ(85本)、サトザクラ(27本)、カンザクラ(13本)、ヒマラヤスギ(12本)、クスノキ(27本)など常緑樹、落葉樹の大木を植樹。カイズカイブキ、キンモクセイ、ヤブツバキ、ウメ、ナナカマド、アオキ、アセビ、キリシマツツジ、アジサイ、ドウダンツツジの花木を含めると、なんと2万7千本近くを植樹した。流山工業団地は、いま美しい緑に覆われている。

 団地を一周するジョギングコース(1.6キロメートル)も設置した。利根運河沿いに造成した「におどり公園」には、ミニアスレチックコースや、東屋のある「いこいの広場」も設置。春4月にはお花見も出来るインダストリアル・パークとして、地域の人々にも楽しく利用してもらうことを考えた。電線ケーブルは全て地下へ埋設してあるので、緑と太陽を生かす景観は、佳絶。光ファイバー網も地下に埋設、世界へ向けてネットワーク出来る。流山工業団地は、西深井の新川耕地、江戸川と利根運河という流山の景勝地に、一足先に実現した「アメニティタウン」(緑が多く、住みやすい快適な環境、設備をもった街)なのである。

産業立志伝を地で行く三人の横顔

 新川耕地に工業団地が出来たのは奇跡だと言われた。この奇跡を実現させたのは、行政と商工会と工業団地協同組合が三位一体となり、すべてがタイミング良く噛み合ったからだと言われる。流山工業団地は、「いつ」「どこで」「どんな人が」「どんなふうに」して造り上げたのか。工業団地物語は、まず団地づくりに参加した三人の企業人のプロフィールから紹介することにする。

 その一人は、栄光産業株式会社の岩佐光章社長。生粋の流山っ子である。加岸の「ましや」呉服店の前の自宅で、昭和43年4月、弱電関係のネームプレートや電気回路図のラベル販売会社を創立した。勤めていた三光産業から独立して、14万円の元手でキソ子夫人と二人で会社を立ち上げたのが始まり。一日の睡眠時間は4時間、2年間で10万キロという車の走行距離が語る不眠不休の努力で、2年後には、市野谷の南部中学前に自社工場を建設。昭和47年には営業部門も市野谷に移転し、併せて、カメラ・製版部門も設立。昭和59年には一般印刷部門をスタートさせ、従業員は38名になった。企画、デザインから印刷加工まで一貫作業ラインを確立して、日本のシール印刷業界では五指に入る企業に成長した。例えば、サンヨーの電気製品を買うと中に電気回路などの説明書きが入っているが、それが栄光産業の製品なのである。

 昭和54年、岩佐社長は記者に次のように語ったもの。「時代の流れとともに印刷そのものの社会的役割も変化してきた。企業の印刷物は『企業の主張の表現』です。それを的確に表現し、企業のイメージアップに寄与することが私共の役割です。そのために、プロとしての知識・技術を身につけ、お得意様に適切なアドバイスを送れる、パートナーになることを目指しています」「企業は永遠に続くもので発展しなければいけない。それで従業員が幸せになり、地域社会にも貢献出来るのです。」と。

岩佐光章社長は、昭和59年4月、「仮称・流山工業団地協同組合」の理事長に就任するや、栄光産業の方は弟・岩佐悳司専務にまかせ、流山工業団地協同組合づくりに挺身。常に組合員の先頭に立ち東奔西走し、大いに力を発揮した経営者である。

 株時会社初石鈑金の熊本忠夫社長は、東京都武蔵野市の出身。中学3年の12月、父親が病気で倒れ、高校進学を諦め三鷹のM製作所に日給320円で就職した。父は翌年亡くなる。17才の時、自動車整備工の話が舞い込み、立川の東洋自動車に入った。学校に行きたくなり、立川高校の定時制を23才で卒業する。江戸川台駅前の望月医院の望月始院長は、母同士が姉妹の従兄弟。親戚の葬儀で顔を会わせたとき「なにをしている、土地を提供するから独立したら。」と、勧められた。それで昭和47年4月、初石の目抜き通りに「初石鈑金塗装センター」の看板を掲げ、独立した。

 「金がないので手書きのチラシを印刷屋に持っていき、出来たチラシを自転車に乗って駐車している車に一台一台挟んで回ったが、創業当時は仕事は全く無かった。半月の売上げが4万6千円からのスタートです。ぼちぼち仕事が入ってきたのは、工場が地の利を得ていたから。いくら親戚とはいえ、一等地を提供してくれた望月さんは、私の第一の恩人です。」と、熊本社長は語っている。独立の翌年、幼稚園教諭をしていた大坂とし美さんと結婚、二人三脚が始まる。昭和56年12月に法人登記をして資本金500万円の有限会社初石鈑金となった。10年経って工場を建て増した。それからまた10年、今度は流山工業団地協同組合に参加して、敷地380坪、建物200坪の鈑金・塗装から車検・整備までを1か所に集約した近代的な新工場を建てることが出来た。平成12年4月、株式会社へ改組した。

従業員は、昭和59年に4名だったが、翌々年7名。昭和63年に8名に増え、平成6年には19名となった。「従業員に年収500万円以上を保証できる会社に早くなりたい。」と、熊本社長は語っている。地域密着、車のお助けマン精神で躍進する初石鈑金である。

 自動車のタイヤ、印刷機器等のゴム製品を造るゴム材料用ミキシングロール、ゴム工業用油圧プレスの設計・製造・販売をしている株式会社東本製作所が、流山市駒木の準工業団地に移転してきたのは昭和49年11月。

 機械は小さくても重量が2トンのものから、高さ5メートルで重量26トンの大きいものまで製造する全国でも18社という数少ない企業の一つ。創業は昭和25年。父親の東本儀一が東京都葛飾区で皮革機械の製作をする東本製作所を設立した。時代の変遷によって得意先が皮革製品からゴム製品に移行するとともにゴム工業用各種機械製造に転換。昭和41年、父親が亡くなり、長男の尤一朗が会社を受け継ぎ、経営は東本3兄弟でガッチリと固め、得意先からの信用も厚かった。母親のマサイさんと社長の奥様恵子さんが事務を受け持った。機械大型化に対応するため昭和44年、埼玉県三郷に工場を移転した。

 駒木の準工業団地には、都市計画上余っている土地へは一般住宅も入れた。工場と工場の間に住宅を建てられる用途指定だから、住工混在を解消するのではなく、混在を促進した形になり、周辺の住民から騒音公害の苦情が寄せられるようになり、東本社長は、住工混在を解消するために、流山市中小企業工業団地調査研究協議会に入り、流山工業団地協同組合の理事として活躍する。

 昭和61年、駒木の本社工場で東本社長は、記者に「従業員は残業や日曜、祭日も出勤して頑張ってくれています」と、語ってくれたものである。

 平成3年5月、流山工業団地に立地した工業事業所は次の25社。いずれも市内の中小企業で、異業種で構成されている。

 株式会社初石鉄工所(総合建築・屋外広告等の鉄骨工事、川畑勇社長)。有限会社澤地シェルモールド(アルミ金型鋳造・鋳物用砂型、澤地勝政社長)。栄光産業株式会社(工業ラベル・オフセット印刷、岩佐光章社長)。トキワ電子産業株式会社(産業用プリント配線基板、菅原剛史社長)。株式会社三英(卓球台を主力としたスポーツ器具、遊技具、三浦敏明社長)。三幸工業株式会社(自社開発のアンカーボルト・ドリル類、洞下照夫社長)。有限会社長浦製作所(プラスチック用精密金型、長浦嘉一社長)。株式会社東本製作所(ゴム工業用油圧機器、東本尤一朗社長)。有限会社青木金型工業(ダイカスト用金型、青木一郎社長)。株式会社スイコー(産業用プリント配線基板、小溝剛社長)。新日興電機株式会社(各種制御盤・キュービクル、田島慎二社長)。株式会社マルタカ(グラビア印刷加工、スリット加工、高橋啓治社長)。有限会社三大工業所(建築金物梱包、大塚弘年社長)。有限会社三修工業所(建築金物オールアンカー、グリップアンカー、山崎正治社長)。カナモリ集成材株式会社(銘木類ツキ板練付集成材、金森久吉社長)。株式会社鶴田食品千葉・株式会社千葉食品(こんにゃく各種の製造販売、山本勝成社長)。有限会社初石鈑金(新中古車販売・車検整備、熊本忠夫社長)。三幸ホームサービス株式会社(一般建築・Sパネル製造施工、洞下実社長)。大藤工業株式会社(ビル用アルミサッシュ・ドアー、藤井当祥社長)。有限会社三隅製作所(精密プレス金型、長尾厚社長)。キクチ株式会社(おもちゃ・日用雑貨・手芸用品・工業用品、菊池憲悦社長)。株式会社田島電気商会(ビルマンション電気設備、田島慎二社長)。株式会社ファンケル美研(無添加化粧品、池森政治社長)。株式会社大黒精機(粉末冶金・放電加工電極、大黒栄達社長)の25社である。

集団化事業の積立を始めた頃

 昭和56年6月、千葉県議会で、流山選出の秋元大吉郎県議は一般質問で、公害問題を発生している住工混在を解消するための工業団地は、市町村単位ではなく県でやるべきだと、東葛支庁管内の16号線が走っている山林に、工業団地を造成する構想を知事に質問した。沼田知事はそれを受け、57年3月、東葛飾地域住工混在対策協議会を発足させ、斉藤勝夫東葛支庁長を協議会の会長に指名する。流山で工業団地が話題になり始めたのはこの頃からである。

 昭和56年10月26日、市野谷の「せきや」で、流山市中小企業工業団地調査研究協議会の設立総会が開かれ、会長に岩佐光章が選ばれた。岩佐会長が、最初に取り組んだのは、参加企業51社の企業診断だった。本当にやれるのか。企業の力を見てもらおうというので、民間の千代田経営研究所に依頼した。そして、昭和57年10月に、集団化事業の積立を開始した。参加企業は決算書を提出しているから、積立金は借金して払うわけにはいかない。そのため、参加企業は40社に減った。流山商工会は流山市へ、第一回目の集団化移転計画書を提出した。この段階で、行政と商工会と工業団地調査研究協議がドッキングしたのである。

 昭和58年4月の選挙で秋元市長が誕生する。住工混在の解消を訴え、工業団地をつくりますと公約していた。その秋元市長の登場が、流山工業団地づくりを早めたのは事実である。

 岩佐会長は当時の思い出を次のように語っている。「今日までやって来られた一つの大きな励みとなったのは、秋元さんが県会議員の時、協議会の親睦会で僕の隣に座られ『岩佐さんね、この工業団地は、造れば未来永劫に残るんだ。一生懸命やって下さい』と言われた言葉だった。流山では、最終的な診断を受けた25社が、一社の落ちこぼれもなく、全員が立地したことは、住工混在の工業団地の歴史の中でも、流山が初めてではないでしょうか。しかも、地場産業だけで、他市から全然連れてきませんから。」

いまだから話せる流山工業団地誕生秘話

 地域新聞『ながれやま朝日』は、平成3年12月から4年1月まで、5回にわたって座談会「いまだから話せる流山工業団地誕生秘話」を特集している。出席者は、秋元大吉郎・前市長、斉藤勝夫・前助役。商工会から浅見道男(前商工会副会長・浅見材木店社長)、丹森享市(前商工会工業部会長・日邦紙工会長)、岩佐光章(前流山工業団地理事長、栄光産業社長)、菅原剛史(前流山工業団地専務理事、トキワ電子産業社長)、上坂操(流山工業団地事務局長)の7氏。(注)肩書きは当時のものです。

座談会に出席した方々(左から秋元前市長、斉藤前助役、上坂事務局長、岩佐理事長、浅見商工会副会長、丹森工業部会長)平成3年8月29日、流山工業団地事務局で撮影した写真
座談会に出席した方々(左から秋元前市長、斉藤前助役、上坂事務局長、岩佐理事長、浅見商工会副会長、丹森工業部会長の皆さん。平成3年8月29日、流山工業団地事務局で。

地域紙が特集した「流山工業団地誕生秘話」

斉藤:私は、川崎の中小企業工業団地を昭和36、7年頃からやっていました。私が東葛支庁に着任してから、流山に来てみましたら、こんな状態ではこの工業団地研究協議会は、工業団地をつくるのは無理だろうと思った。秋元市長のいう運命共同体には程遠かったんです。市の方でなんとかやれよ、というぐらいな気持ちでしたね。
浅見:昭和57年2月、先進工業団地視察で、斉藤支庁長は静岡県富士浮島へ一緒に来ていただいた。
斉藤:泊まったところが浜名湖畔。夜寝ないで話しをしましたね。
浅見:そう。支庁長には寝てもらおうと思ったが、熱心でね、皆と討議してくれた。それが、皆の団結となってきた。
岩佐:普通なら、東葛支庁長さんは、私達のような研究協議会の旅行などには来てくれないのですよ。それが来てくれて、熱心に指導してくれた。静岡の羽衣荘で寝ずにしゃべったことは、集団化のことだけですからね。
斉藤:朝の4時だから、皆寝ましょうと言ったら、伊藤重三商工会長さんが、これはいいお茶だから、飲んでまたやろうということになった。とうとう寝なかったんです。
司会:集団化とは何か、を討議したのですね。
斉藤:集団化には、自分達の経理を全部公開していかなければなりません。フトコロを全部オープンにしなければ、集団化できないということを話した。
秋元:裸になって集まろうということですよ。
司会:良い指導者に恵まれたわけですね。その人が、不思議なことに、助役となって流山に入ってくることになった。
丹森:いや、驚きましたね。助役になって来る斉藤さんは、支庁長の斉藤さんかと、確かめたものですね。
浅見:いや、来られた時に驚いた。支庁長!と思わず呼んだ。
司会:昭和58年7月1日。斉藤勝夫支庁長は、流山市助役として着任した。
秋元:私は助役を選任する時、これからの流山の産業の中で、農業は私なりに分かるが、商工業は私の得てではない分野なので、公約を実現させていくためには、その方面に明るい助役でなければいけないし、県とのパイプ役でもなければならないと考え、斉藤支庁長以外に人は居ないと思いまして、沼田知事さんにお願いして、斉藤さんに来てもらった。

タイミング良くすべてが噛み合った

(ここで、岩佐理事長が退席し、かわりに菅原剛史専務理事が着席した)

司会:菅原さん、当時の思い出から話して下さい。
菅原:住工混在で悩んでいる人たちが協力して、地元に工業団地が造れるなら、そのキッカケをつくりたいと、呼びかけのために、あちこち会社を回っていたんです。流山では出来ないよ、という声がかなりあった。そうした中で、商工会に工業部会が出来て、一つの母体になってくれた。
上坂:昭和52年6月に工業部会が出来た。商工会に部会が出来たのは、工業部会が最初です。当時、東葛の商工会議所の工業部会だけのサミットがあった。東葛サミットと云われ、野田、松戸、柏、市川、船橋は、みんな会議所で、流山だけが商工会でした。共通の話題として、ジュウコウコンザイという話が出ましたが、私は最初、これは英語かと思った。それくらい何も知らなかった。船橋では、その頃、海を埋立てて、住工混在解消のための工業団地を造っているという話も出てました。
菅原:流山の工業団地づくりは、一つ一つの条件がどれが欠けても、事業はずれ込んだと思いますよ。出来たかもしれないけれど。例えば、上坂事務局長の存在、岩佐理事長が居なかったら、商工会に工業部会が無かったら、あるいは、秋元さんが市長にならずに県議のままで居たら、出来たかもしれないけれど、かなりズレ込んだと思う。その辺の噛み合せが、流山の場合は、タイミング良く、うまく行った。そういう意味でわれわれは非常に運がいい。斉藤助役が来られたのも、まさか、だれ一人来るとは考えてもいない。そういうベテランが入って来て、われわれに知識をつけ指導してくれた。そういうことの積み重ねが集約されて出来たと思う。普通、行政面でのバックアップはしてくれても、指導までは出来ないものですよ。

1級農地の農転許可が遂に下りる

司会:これなら大丈夫、出来ると思ったのはいつ頃ですか。
菅原:土地がはっきりするまでは不安を持ってました。ここまで来たら引くに引けない。私は自分では万が一、工業団地が出来なかったら、みっともなくて流山市内を歩けない。そんな気持ちでした。他の役員の人たちの話を聞いても、皆そうでした。
秋元:昭和62年に用地買収に入るでしょう。それまでに、工業団地協同組合の方々や、リーダーとして引っ張ってきた理事の方々に、私は何回も「あんたの腹の中には、工業団地はどこへ持ってくるか決めているんだろうが、あなたは言ってくれない。それを話してくれないと工業団地協同組合は壊れる。早く話してくれないか」と云われた。私は満を持して、いつ、どう発表するか、ずーっと、こらえにこらえていた。私もつらかったんです。
菅原:あのカン口令は、すごいですね。役所の窓口になっている人たちは、市長の命令を忠実に守って、一言も洩らさない。しかし、結果的には、それが、われわれにプラスになるんです。話が広がって西深井のあの地区ということがはっきりしたら、当然、われわれは高い買い物をしなくてはならなくなります。
秋元:それを一番恐れたんです。だれかから洩れますと、必ず不動産業者の買い付けが始まる。おのずから単価が引き上げられて来ます。
斉藤:県の農地課長さんが私に、「農転は、二階から目薬を目にさすほど難しいことなんだ。」と云うんです。一級農地だけど、流山工業団地の事業はここ以外に用地はない。どうしても知事が必要とする事業であるから、農転の必要があるという結論に持っていったわけですが、事務的に詰めていくには、色々なことがあるんですよ。毎日毎日、商工課の担当者は夜の11時12時まで頑張った。
菅原:本当にたまげちゃいましたよね。私達は、もう団地を造りたい一心ですから、夜集まって深夜の11時や12時まで会合をやっているわけですが、そこへ役所から電話がくるんですよ。「お前さんのところは、機械は何を置いているか知りたい」と。申請書を作るために、一人一人、電話口に呼んで、深夜に必要な資料づくりをしてたんです。行政は一生懸命やってくれたんですね。普通の市町村では、そこまでやってくれません。その熱意が伝わってきましたので、きつい事を云われても、われわれも腹を立てなかった。
斉藤:菅原専務理事が、カン口令がきびしく、全く洩れなかったというのは、秋元さんが農地転用の苦しみを知っておられたからですね。
上坂:(一寸立ち上がり、一枚の地図を持ってくる)これが、どこだか分からないが、商工課の北村氏が持って来た工業団地の用地です。これで、25社のレイアウトをして下さいと持ってきたものです。
丹森:場所は、何処だ、何処だと、皆で考えましたね。
斉藤:工業団地のレイアウトがないと、県の総合診断が出来ないからですよ。
司会:それは、いつ頃の話ですか。
秋元:工業団地の記録によると、昭和62年11月に、流山市より工場集団化移転用地のレイアウト作成を要請されたとありますよ。
斉藤:62年10月10日に、地権者への説明をやってますが、まだ、カン口令をしているわけですね。農転の内示は、昭和62年3月5日です。正確に言いますと「農地転用事前審査申出書」というのがあるんです。そこを通れば、実質上の事前審査と言っているけど、農転の許可と同じなんです。その審査が3月5日。知事から直接、都内の市長の所へ電話が入ったんです。
秋元:あの日、私は東京へ行ってた。帰途の車の中で知事からの電話なんです。「農転の事前審査が終了した。これは、農転が下りたことだよ。」と。
斉藤:で、市長室に呼ばれるわけです。助役、商工課長の柳沢、係長の北村の三人が呼ばれて入って行った。市長は、もう目が真っ赤です。言葉はない。市長の目に涙。私等三人も市長室で涙。これは皆さんの知らないことでした。

工業団地の波及効果は大きい

斉藤:秋元さんは、行政の仕組みにも非常に明るかったのには驚いています。工業団地の土地と、その上物の設備、この仕組みをどうしたらいいか私には判断がつかなかった。仕組みはいろいろあるんです。「市長、どういう仕組みで行ったらいいのですか」と聞くと、「土地は公害防止事業制度で行け、上の建物、設備関係その他は、高度化資金でやらせていけ、この二つの仕組みの中でやれ」と。なぜ、土地が公害防止事業団なのかは、土地買収のとき、初めて理解した。公害防止事業団法という法律の基に出来ている国の機関なのです。だから、地権者にも説得力があった。「市長の判断は、ここにあったんだな。」と、後で分かった。
秋元:私も一地権者だから、地権者の考え方は分かる。地権者の立場からしますと、企業が用地を買収するというのと、国の事業で国に協力して頂きたいんだという話とでは、受取り方が違うんですね。国の事業に協力するということで、先祖伝来の土地を国家に手放したという大義名分が地権者には立つんですよ。
あの頃、四街道の工業団地を視察した。公害防止事業団が造成して、その上物も公害防止事業団が造って、土地の上と下を一緒に分譲した。ところが、地盤沈下が来た。原因は埋立にあるということで、事業団が全部手直しすることになった。流山市で、造成上がりで20万円の土地といったら、水田しかない。やたら埋め立てて。それで建てたら、いつの日か四街道と同じ地盤沈下という問題が起こらないとも限らない。だとすると、これは別々にやらした方がいい、そう判断したんですよ。
斉藤:これは秘められた歴史の部分ですね。
秋元:公害防止事業団が埋立をして用地分譲して、その上物は高度化資金でやるということになると、地盤沈下が起こった場合に、企業だけが責任を取らせられて、企業と公害防止事業団とが話し合うだけでなく、高度化資金を貸しつけた県も国も、事業団に対して「これは、けしからんことじゃないか」と、当たりが強くなる。工業団地と公害防と交渉するのでは弱い。やっぱりその後に県だとか国が控えていて、「公害防止事業団の土地造成はけしからん」とバックアップしてもらえる。そう判断したのですよ。
斉藤:高度化資金というのは、知事が貸し付けるのです。で、その原資は、半分は国の通産省の方からの金なんです。だから、そういうことを踏まえた上での判断があったわけなんです。
司会:とにかく、こうやって工業団地づくりが緒に就いていく。これは、戦後の流山の工業史の金字塔ですね。
菅原:私たちが集団化出来たことは、いい意味での先例です。市内を活性化していくために、行政が、行政がと、いつも市にまかせておけばいい、という考え方ではいけない。自分たちも一緒に、精一杯努力してやっていくんだという姿勢がないといけないと思うんです。
秋元:そうですね。この工業団地が、こういう形で見事に出来上がった。この波及効果というのは、これからの流山の、大きく云えば街づくりに、勇気を与えたと思いますね。菅原さんがおっしゃったように、腕組みしていても市がやってくれるんだということじゃなくて、自分たちも率先してやる、そういう気運の盛り上がりが必ず出てくると思います。

地鎮祭の鍬入れの儀(左から岩佐理事長、秋元前市長)の写真
鍬入れの儀:岩佐氏、秋元氏
地鎮祭式場の写真
地鎮祭式場
流山工業団地の全景(平成12年4月22日撮影)の写真
全景(テントは地鎮祭式場)

 月刊タウン誌『流山わがまち』(平成2年9月号)に「山工業団地で地鎮祭・いよいよ来年3月に創業開始」というタイトルで、次のような記事が出た。

 『公園や緑地の快適空間を多く配したアメニティ工業団地として、内外から注目を集めている流山工業団地の地鎮祭が8月8日(水曜日)、新川耕地の利根運河沿いの建設用地で、秋元大吉郎流山市長、内藤茂雄流山市商工会長ら多くの来賓、関係者が出席して行われた。
 この工業団地は、急激な人口増加に伴う都市化による住工混在の解消を目的に、昭和59年から流山市、流山市商工会、流山工業団地協同組合(岩佐光章理事長、加盟25社)が進めているプロジェクト。団地用地9.5ヘクタールのうち約20%を緑化するのが特徴で、景観も大切にしたユニークな工業団地となる。昨年4月に始まった造成工事もすでに終了、9月からは各社屋の建設が始まり、操業開始は来年3月の予定。』

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