昭和の産業史その3

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ページ番号1013081  更新日 平成29年9月15日 印刷

流山は日本のショットピーニング発祥の地

日本鋳工株式会社とその果たした役割

 昭和のはじめ、流山の加岸に、日本鋳工株式会社という会社があった。江戸川と今上落しに挟まれた帯状の地に、昭和17年、日本鋳工は日本一小さい溶鉱炉を建設した。

 小型溶鉱炉は、耐火レンガを円筒状に組んだ高さ15メートルほどのもので、空気を送る水冷羽口が4ケ所あった。褐鉄鉱とコークスを交互に入れ、1時間5トンの銑鉄を産出。真っ赤に溶解した銑鉄を小滴状にして冷水中に落下させた。銑鉄が砕けて急冷される時に、表面張力で小球状になった銑鉄がショットで、ショットを砕いたものをグリットといった。

 ショットやグリットは、戦時中は石材の切断、鋳鉄製品の切削研磨用に使われ、各地の海軍工廠に納入されていた。

 当時、日本鋳工で技術指導をしていた福田連(むらじ)技監は、米国でショットピーニングという技術を開発していることを米国の雑誌で読んで知っていた。そして戦後、このショットやグリットを金属面に噴きつけると、金属疲労が驚異的に伸びるショットピーニングという技術を、日本で最初に実験して、その威力を確かめた。

 昭和25年6月25日、朝鮮半島の38度線で朝鮮動乱が勃発。戦場で酷使されバネが折損した米軍ジープが修理のため日本に送還されて来た。この米軍特需は、ジープのバネの仕様にショットピーニングを施すことが要求されたが、当時の日本で、このアメリカ生まれの技術を実験で知っていたのは、流山の日本鋳工の福田連技監。はからずも、米軍特需で困った日本のバネ業界、自動車産業の救世主になった。日本鋳工もショットピーニング専門工場としてクローズアップされたのである。

「昭和の流山産業史」第3話は、流山っ子も殆ど知らなかった日本鋳工物語である。

當舎研究室で

 驚いたことに、日本鋳工の福田技監が終戦直後、鋭意研鑽したショットピーニングを専門に研究開発する学会が、平成元年に日本に誕生していた事を、最近知ったのである。その名も「ショットピーニング技術協会」。教えてくれたのは、昭和32年、中学を卒業して日本鋳工の技能者養成所に入った秋元勝夫氏。現在、東深井で、サンドブラスト装置の製造販売をしている秋元産業t株式会社の秋元勝夫社長だ。

 早速、学会の担当教授に電話でアポイントを取り、川崎市多摩区にある明治大学理工学部機械工学科の當舎勝次研究室に置かれた、「ショットピーニング技術協会」(SocietyofShotPeeningTechnologyofJapan)を尋ねたのは、平成17年6月24日である。

 當舎教授の研究室には工作機械が置かれて、2、3人の学生たちが仕事をしていた。

1996年9月発刊のショットピーニング技術協会の会報の写真

 驚くなかれ、ショットピーニング学会には、国際会議もあった。それほど、世界の機械工業界にとって不可欠のハイテク加工技術だったのだ。その第4回ショットピーニング国際会議が、平成2年、日本の池袋、メトロポリタンホテルで開かれていた。議長を務めたのは當舎先生の指導教授の飯田喜介先生で、ショットピーニング技術協会会長である。

 「技術協会の誕生のことも、第4回国際会議のことも、技術協会の機関誌第1号に出ていますから、あとで見てください。」と、當舎先生から頂いた機関誌『ショットピーニング技術』の創刊号(1989年3月)の巻頭に、日本鋳工の福田連技監の功績を讃える広瀬正吉博士の言葉が載っていたので、抜粋してお目にかける。

広瀬名誉会長の言葉

 広瀬正吉は、昭和25年10月、日本鋳工の福田技監が日本発条株式会社の応援を得て、日本国内で初のバネに対してのショットピーニングを行って金属疲労試験を行った時の、共同研究者として参加した時は、鉄道技術研究所の機械工作室長である。

 「この度、奇しくもわが国に平成元年を期してショットピーニング技術協会が設立され、機関誌が発刊されることになりました。無量の感慨を覚えると共に、日本鋳工株式会社の技監であった故福田連博士の真摯な業界啓蒙の草分け的活動を忘れることは出来ません。
 博士は日本国内各地を巡って、ショットピーニングとその疲労強度向上効果について然るべき人達に説いて回られましたが、当時としては、あまりにも信じ難いような驚異的効果であったので、容易に信用されず、隔靴掻痒の感を深くされたに違いないと思われます。
 和26年頃、福田博士は意を決して『日本ブラスト協会』を設立し、記念講演会を開催しました。私もこの時、故福田連博士と私と日本発条株式会社の三者共同で、日本ではじめて行ったショットピーニングの疲労試験結果について概要を説明した覚えがあります。第3回は大阪での開催でしたが、惜しむらくは機未だ熟せず、同博士の雄図は空しく潰えたかに見えました。昭和25年6月に起こった朝鮮動乱は、日本に大きな影響を与えましたが、米軍の軍用自動車用バネの修繕を日本に委託したのもその一つで、その結果、バネ業界では真剣に取り組まねばならなくなり、ショットピーニングの蕾が開花し始めたものと思っています。」

石井欣次の回想

 そもそも、記者が日本鋳工と、福田連技監のことを知ったのは平成5年である。その年の秋、タブロイド新聞『ながれやま朝日』で「流山の産業・昔と今」を連載し始めた。日本鋳工の記事は、11月20日号に登場したが、市立図書館の裏に住む俳人・石井欣次に取材したものである。

 山の和菓子屋の老舗清水屋の次男、石井欣次は昭和17年、24歳の時にヤマトボーリング株式会社流山工場に入り、庶務係となる。

「工場長は富永夏彦さん、社長は佐伯さんと言いました。」と、石井は記者に話し始めた。

「私が入社した年、工場に小型溶鉱炉を造ったんですが、湯出しに失敗した。社長は、知り合いで成蹊高校の初代の地質学教授、満州帝国地質調査所長を歴任し、大日本学術振興会の委員だった福田連(むらじ)理学博士に修理の応援を頼んだんです。福田さんは、黛(まゆずみ)清という溶鉱炉の技師を連れて来て、1か月後にめでたく出銑した。福田先生は請われて、そのまま昭和17年10月からヤマトボーリングの技監に就任し、黛さんも技師長になったのです。」と。

 石井はその頃、高梨花人が主宰する流山の『芦の花句会』の同人で俳号は麗火。句会最年少の高橋竜を、ヤマトボーリングの庶務係に世話した。

俳人高橋竜の回想

 平成17年4月29日、東京に住む現代俳句作家の高橋竜に、流山の茶豆蘭にお越し願って、日本鋳工時代の想い出を話してもらった。

 「第二次大戦中、町の商店の主人は軍需工場に徴用されました。ヤマトボーリングも海軍の仕事をしてましたから、徴用逃れで街の魚屋さん、八百屋さん、肉屋さんなどが、地元のヤマトの工場へ入ってきたんです。戦争がだんだん激しくなって来る。溶鉱炉は1回操業すると1週間は火を止められない。夜でも、赤い火がぼうぼうと燃えている。空襲で目標にされるからと、町から反対されて、終戦近くの頃は、あまり仕事が出来なくなりました。」

 「福田連技監は、工場へは1週間に1回ぐらい来てました。昼食時間、講堂に集まった従業員に、初歩的な溶鉱炉の話や、地質調査の話などをしてくれた。僕は若いから、先生から漢詩などいろいろなことを学んだ。テン刻のハンコも作ってもらった。なにしろ当時は物の無い時代。先生は流山に来ると、野菜など持って帰る。その買い出しに行くのが僕の役目でした。」

『功績調書』から

 美濃紙10枚にタイプ印書された福田連の『功績調書』を、石井欣次は平成5年、記者に見せてくれた。日本鋳工株式会社の保存文書であったと思われる。

 そこには、福田技監の人柄を次のように書いてあった。

 『氏の人柄を一口で言えば創意工夫の人である。また、氏は運動家で、テニスを良くやられて、成蹊高校(注・旧制)では野球部長を務められたし、絵心は人並みすぐれたものがあるし、漢詩を作られたり、テン刻を良くせられた。そのように芸術を愛し、人生を豊かなものにする天性を持っている。
氏は成蹊の初代の地質学教官として、特に実験を主とした、全く異色といっても良いカリキュラムを7年制の特徴を生かして立案、実施された。経験上から執筆された実験鉱物学は、着想、発想の良さ、創意工夫に満ちたもので、高校教科書として抜群のものであった。』

 福田技監は、日本鋳工の流山工場でショット、グリットの生産現場に立会いながら、工場の技術者の協力を得て、ショットピーニングの実験を試み、ピーニング問題に関する図書を、慶應大学藤山図書館、東京大学図書館、東京工業大学図書館、通産省機械試験所、国鉄技術研究所などで読みあさった。

 「東京で読みうるものの大部分に目を通し、どうやらピーニング加工も出来るようになり、ブラストに関する材料も大分集まってきたので、整理し、索引を付けた。人これを見て、秘蔵死蔵せず、世人に分配せよと勧める者があるので、これに応ずることにした」と、福田連は、昭和28年2月、日刊工業新聞社から上梓した工業技術解説書『ブラストクリーニングとショットピーニング』の「序文」の中に書いている。

 ショットピーニングの教科書は、当時、米国のウィーラブレイタ・アンド・イクイプメント社から出ている『Shot Peening』という本があるだけで、邦文の参考書は何もない。これは、日本で最初に刊行された邦文のショットピーニングのテキストである。

 本の奥付けに、次のような著者略歴が載っていた。

 「大正7年、東北帝国大学理科地質学科卒業。砂鉄精錬鉱鉱滓の研究により理学博士を受く。三菱製鉄株式会社技師。成蹊高等学校教授を経て、シャム(現タイ国)・マレイの鉄鉱山、錫の再度にわたる調査に従事し、満州国地質調査所長を歴任。現在、日本鋳工株式会社取締役、三菱鋼材株式会社嘱託」。

 福田連技監が、日本鋳工の取締役であったことも、記者は、この本で初めて知った。

野能明の体験談

昭和30年ころ「日本鋳工第1工場、完成したショットブラストマシン前列左端が野能さん」の写真

 現在、流山市青田でショットブラストマシン、集塵装置、一般建設業、鋼構造物工事業を手広く行っている有限会社野能鉄工所を経営している野能明は、昭和25年11月、中学を卒業、施盤を習得したくて日本鋳工に入社した。

 「私は17人目の従業員で、入ってすぐは月1回、鉄を溶かした後の溶鉱炉の煉瓦の張り替え作業で、2年目から、溶接にまわり、ショットブラストマシンの第1号機の製造に関わった」と、平成17年5月10日、野能は日本鋳工時代の想い出を語ってくれた。

 ピーニングとは何か。日本語で言うと、どういう意味なのか、という記者の疑問に答えてくれたのも野能だった。

 「ピーニングというのは、(丸頭のハンマーを図解して)この丸い頭をピンというんですよ。このハンマーで、コン・コン・コンと、小刻みに叩く、日本刀の刀鍛冶のように鉄を叩くことによって、表面が硬くなるんです。これがピーニングであると、私に教えてくれたのは日本鋳工の前田理一技師長。ショットブラストマシンの第1号機は、アメリカの雑誌の写真を見ながら前田理一さんが設計し、ああでもない、こうでもないと、いろいろテストしながら造ったんです。パイプに小さな穴をあけて、モーターで回転させる。そこへ、ローターでショットを噴きつける。このショットが毎秒70メートルで飛んでくると、前田さんは説明してくれました。」

 「学者の福田さんのアイデアを、前田理一さんが設計し、図面を引いたのは菊池という人でした。菊池さんはブラストマシン第1号機が完成すると、これで一安心したと、退社しました。」

技術者養成所を開設

 日本鋳工は、技術者養成のため技能者養成所を昭和32年4月に開設した。福田連技監の指導があったものと思われる。

 その年、北部中学を卒業して、技能者養成所に入所した秋元勝夫は語る。

 「技能者養成所には100人ぐらい応募した。24人が採用され、18人ぐらい養成所の方に入ったんです。校長は、キッコーマン関西工場長だった秋葉福治さんで、蔵前工業を出た立派な技術屋でした。講師陣には、福田さんも居ました。社会科は流山市議会議長になった斉藤徳太郎さんが教えてくれました。午前中は講義で、午後は実習でしたが、翌年、日本鋳工が倒産してしまったんです。」

日本鋳工倒産す

 昭和30年4月、高校を卒業して日本鋳工に入社して、労務係になった秋葉邦男は、現在、千葉県倫理法人会後継者倫理塾事務局で活躍しているが、当時のことを次のように語った。

 「何で倒産しちゃったか分からない。われわれは、ある日、突然という感じでした。従業員組合がなかったので、急遽、組合を結成して、古沢さんという人が組合長になった。名簿づくりを手伝った覚えがあります。常与寺の前の流山会館で、組合主催の決起大会がありました。」

東京砂町にあった日本鋳工本社

 当時、日本鋳工の工場長だった石井欣次は、平成5年、記者に倒産の経緯を次のように語った。

 「富永夏彦社長が会社を空けて遊び過ぎた。毎晩、お客を伴い東京で芸者遊びで、典型的な黒字倒産でした。倒産した時、年間利益は1億5千万円ぐらいでしたが、経理のミスで37万円の不渡りを出したんです。経理部長は三菱銀行の支店長をした人でしたが、大企業出身の人は機転がきかない。運悪く土曜日で、富永社長も知らなかった。工場長の私も東京・砂町の本社に呼ばれていて知らない。9月10日でした。工場からの電話で『大変だ。明日出荷する製品とか、機械のモーターなどを、東京の大成鋼材が自動車15台で、不渡りの形に取りに来ている』というんです。いくら阻止しても暴力団も一緒に来ていて、どんどん積んでいるという。私たちが急いで帰って来た時、自動車は殆ど出て行ってしまった後。その夜、私は大成鋼材に行って交渉したがラチがあかず、ついに倒産してしまったんです。」

 日本鋳工が倒産し、富永夏彦社長が雲隠れして、石井欣次工場長の自宅にまで債権者が押しかけ苦労しているという話は狭い町内に知れ渡った。

石井の「父の教訓」

 日本鋳工のことを記者に伝えた石井欣次は、平成14年8月20日に永眠。享年82歳。石井家は流山では古いカトリック信者で、霊名ベルナルド。ホトトギスの俳誌『悠』の同人。句帳に残された最後の句は、8月13日「黒薔薇や崩れし跡も美しく」。

 普子夫人から未発表の原稿を預かった。

 『この道しかないので、この道をひたすらに歩く』という題で、400字詰め原稿用紙3枚である。

 「その頃私が勤めていたヤマトボーリング株式会社は、鉱山やダム堰堤、温泉掘削のボーリングマシンを製造している会社であり、僕がいた流山工場は、ボーリングマシンとそれに使用するショットをつくっていた。僕が社会に出て初めて勤めた会社である。僕はその頃、労務係であり、出勤簿の整理や労働基準監督署関係の仕事をしていた。
 流山の前町長小谷さんの家で、流山木材工業という会社をつくり、製材と、木材、建築材料の販売をしていた。その小谷さんから私に、ヤマトボーリングをやめて『うちの工場に来てくれないか』との誘いがあった。
 僕は小谷さんに認められた、という嬉しさで、この事を親父に相談した。『男は一度選んだ仕事から一生離れてはいけない。これからこの事は忘れない様にしろ』と云われた。それで僕はヤマトボーリングにそのまま勤めることにした。
 それから3年程経った頃、ヤマトボーリングは川口市に移転し流山工場は分離され、日本鋳工株式会社として新発足した。240から250いた従業員の内10人足らずを残して、大部分は川口市に移転して行ってしまった。
 僕はこの時、川口市に移った方が有利であったが、これからどうなるか譯らない新会社に残り、ショットの仕事を一生の仕事として選んだ。この時も親父の言葉を思い出したからである。
 男が一度選んだ仕事を一生続けることは並大抵の事ではないが、親父が菓子製造の仕事を15才から84才で死ぬまでやっていた事は、自分の親父でありながら偉大な人間であったとつくづく思われる。(以下略)」
 

戸辺織太郎登場す

 石井欣次が「これからどうなるか譯らない新会社に残る」と書いた日本鋳工株式会社は、実は、昭和8年、野田の戸辺織太郎が設立したグリット商会がその起源であることが分かった。

 最近、『岩吉どん九十一年の生涯』という表題の本、野田市長・戸辺織太郎の「追悼録」を読んだ。戸辺は野田町長を1期、野田市長を3期務め、昭和51年7月14日、91才で永眠した野田の名誉市民である。

 その年譜を調べていると、「昭和8年11月3日、東京・西銀座に日本鋳工株式会社を創立、代表取締役に就任」とあったので、驚いた。えっ、本当なのか。

 早速、野田市中野台に住む後継者の戸辺好郎氏にインタビュー。日本鋳工株式会社の創設者は、野田の戸辺織太郎であることを確認した。

 しかし、昭和8年に設立したのは日本鋳工ではなく「グリット商会」で、ヤマトボーリング株式会社流山工場と同じ加岸の、こちらは小谷材木店の前に、グリット商会流山工場を建設し、扱う製品も同じだった。そして、昭和11年、戸辺は個人商店のグリット商会を株式会社グリット商会に改組する。そして、昭和13年、株式会社グリット商会を日本鋳工株式会社と名称を変更していたのである。

 戸辺好郎氏は語った。

 「昭和11年、父がグリット商会を株式会社グリット商会に改組した時、親戚の柳瀬九六・とめ夫妻が結婚して流山工場の社宅の一つに新世帯を持ち、会社のしもりをしていました。とめさんは、現在92才で、流山の野々下で元気に暮らしています。電話しておきますから是非行って、昔話を聞いてみて下さい。」

 電話で打合せをして、野々下の柳瀬家にお邪魔し、とめさんが用意してくれた古いアルバムから、昔の日本鋳工の貴重な写真の数々が出てきた時には興奮した。

 柳瀬とめさん夫婦は、昭和19年、戸辺織太郎が日本鋳工を退社した時に、流山を引き上げたという。

 流山小学校の校庭で行われた日本鋳工の運動会の写真には、昭和15年10月17日と、日付の入った日本鋳工株式会社のハンコが押してある。昭和16年に写した野球倶楽部「日鋳チーム」の写真もあった。驚いたのは、日鋳野球チームの中に富永夏彦が入っていた。昭和13年頃、日本鋳工株式会社流山工場の前で写した従業員の記念写真にも、富永夏彦が同僚と肩を並べて座っていたのである。

昭和15年10月17日「日本鋳工の運動会、流山小学校の校庭で」の写真
昭和15年10月17日「日本鋳工の運動会、流山小学校の校庭で」
「裏面に日付」の写真
裏面に日付

 昭和17年、石井欣次がヤマトボーリング株式会社流山工場に入社した時、工場長だった富永夏彦は、その前は、戸辺織太郎の経営する日本鋳工の社員だったのである。

 ヤマトボーリングの親会社の大和工作所(佐伯謙吉社長)の本社は、東京・西銀座の滝山ビル3階にあった。その3階の一番奥の部屋に、日本鋳工の本社も入っていた。

 佐伯社長と戸辺織太郎社長は、同業同士で交流していた。九州男児で太っ腹の富永を欲しいという佐伯社長の要望を入れ、ヤマトボーリングの流山工場へ富永を移籍させていたと思われる。

 昭和16年、大東亜戦争が勃発。日本鋳工に必要な原材料は、通産省の大企業本位の政策で割り当てが逐次減少。しまいに皆無となり、19年秋には溶鉱炉の火を落とす事態となり、事業を停止する。戸辺織太郎は日本鋳工を退社し、新興産業株式会社を興し、鉱山の採掘などに乗り出す。

 前後して、ヤマトボーリングの佐伯謙吉社長が亡くなり、親戚の神立氏が社長となり、川口市に本部を移転する。工場長だった富永夏彦は、流山に残った10人ほどの従業員と共に、事業を停止していた日本鋳工株式会社に吸収合併する。この時、戸辺織太郎の肝煎りで、子飼いの富永夏彦が、社長に抜てきされたと思われる。
福田連技監は、黛技師長と共に、富永社長の新会社に残ったのである。

職業野球団「大和」

 ところで、福田理学博士のように傑出した学者が、何故ヤマトボーリングのような小さな町工場に来たのか。平成5年に石井欣次から話を聞いた時には気にも止めなかったが、この度、昭和の流山産業史を連載するに当たって、高橋竜氏を取材して、ヤマトボーリング株式会社の親会社が大和工作所で、佐伯謙吉社長は、戦前のプロ野球の大和軍を持っていたという話を聞かされて納得した。

 早速、東京商工会議所資料センターで「大和工作所」を調べたが記録は残っていない。

 東京ドームにある野球体育博物館に行き「大和軍」を調べると、『鈴木龍二回顧録』128ページに、次のように記録されていた。

 『戦争の激化にともなって、チームにも変動があった。黒鷲が『大和』と名前を変えたことである。黒鷲は、名古屋の大日本ビールの高橋龍太郎社長が、資金を出していたが高橋さんに代わって、大和工作所の社長の佐伯謙吉さんという人が資金を出すことになった。大和工作所は鉄工場で、軍需品を作っている。佐伯社長は、高橋さんとも関係のある人であった。チーム名を“大和”と変更した。ダイワではなく“ヤマト”である。このほうが黒鷲より、戦時下のチームとして、ふさわしいではないか、ということである。』

 ヤマトボーリング株式会社の親会社、大和工作所の佐伯社長は、職業野球チーム、イーグルス(黒鷲)の後援会長だったが、昭和17年、イーグルスの経営者の大日本ビールの高橋社長に代わり資金を出して、チーム名を大和に改名した。が、昭和18年、戦争が激しくなりチームを解散している。大和工作所は資金力の豊かな会社であったのだ。

米軍特需で一躍浮揚

 ショット、グリットが金属表面処理用として日本で本格的に使用され始めたのは昭和26年からである。米軍特需でジープ用重ね板バネの仕様にショットピーニングを施すことが規定されてから、トヨタ自動車では早速納入しているバネメーカーに対してショットピーニングを全面的に行うよう通達した。豊富な資料を持っていた福田連技監は、ショットピーニングの第一人者としてクローズアップされ、日本鋳工もショット・グリットの専門メーカーとして注目されたのである。

 このショットピーニング、グリットブラスチングという加工技術は、日本の製造業の技術革新に先鞭をつけ、今日、自動車の輸出が盛んになった基礎的な技術に貢献しているといわれる。

 アメリカの特需景気で日本鋳工のブラスチング、ピーニングマシンの売上げが急増。富永社長は、全従業員を連れて熱海温泉などに豪遊した。熱海温泉に同行して若い社員たちと酒を酌み交わした福田連博士も写っている貴重な記念写真が残されている。

 日本鋳工の富永夏彦社長は、流山の町会議員、教育委員を歴任していた。その会社が、ある日突然、黒字倒産したのである。

前列右から富永社長、石井工場長の写真
前列右 富永社長、石井工場長
最後列左から黛技師長、福田技監の写真
最後列左 黛技師長、福田技監
昭和27年頃熱海温泉での記念写真
昭和27年頃熱海温泉 記念写真

分裂する日本鋳工

 日本鋳工の再建話が持ち上がったが、富永社長は、石井工場長に辞任を求めた。直ちに自宅に戻り新しい仕事を探さねばと考えていた矢先、幼友達の堀切兄弟の兄、堀切紋次郎から電話が入った。

 「どうした。大丈夫か。仕事は出来るのか。」
 「出来る。人も居る」
 「では、新しい会社を作ればいい。」

 早速、堀切紋次郎の指導のもとに新会社の設立準備に入った。キッコーマンの堀切紋次郎、中村組の中村正一郎、洋品のマキノの牧野耕之助、兄の石井泰正たちが資金を提供した。工場用地は三輪野山とし、中村組で造成し、建物も建ててくれた。「建設費用は有る時払いの催促なしで有難かった」と石井は回想していた。

 かくして、昭和33年1月、資本金5千万円の日本金属粉末株式会社が発足した。

 「倒産した時、技能者養成所から私と斉藤君の二人が金属粉末に移った。それで、半年ぐらい野田の厚川鉄工で、溶鉱炉を造ったんです。溶鉱炉の図面は養成所の校長先生だった秋葉福治さんが書いた。昼間信義さんの指導で、私と斉藤君と3人で野田で造ったんです。三輪野山に工場が出来るというので、今度は三輪野山で中村組と一緒に土方をしました。」と、昭和32年、流北中から日本鋳工技能者養成所に入った秋元勝夫は回想した。

 三輪野山に建設した流山工場で、溶鉱炉の竣工記念式が盛大に行われ、溶鉱炉の屋根から万国旗がはためいた。この時の記念写真を労務係だった秋葉邦男が写していた。

 日本金属粉末株式会社の初代社長は黛清。専務は石井欣次。幹部社員は、日本鋳工で営業担当の中山昭太郎。日本鋳工の職工長の昼間信義。日本鋳工事務職の山村信義、宮野肆男。粉末冶金の専務の中谷明、キッコーマンから入った戸辺賢次郎。

 日本鋳工で、ショットブラストマシンの第1号機の製造に参加した野能明によると、倒産後、日本鋳工は三つに分裂したと言う。

 「日本鋳工が倒産後、日本金属粉末株式会社とは別に、組合管理の新日本鋳工株式会社が出来た。組合役員の大木元雄委員が中心になり仕事をしたが、これがショット、グリットを製造販売する日鋳株式会社として独立し、我孫子青山工場を建設し、現在も活躍しています。もう一つ、流山にあった日本鋳工の工場設備をそっくり借用して不二鋳工という会社も出来て、営業していた。」

 福田連理学博士は、倒産した時点で、日本鋳工を去った。

日鋳クラブで活躍

 昭和時代、流山町の商工会では、会社対抗の陸上競技、野球大会が盛んだった。

 昭和29年5月、流山町野球連盟の第1回創立大会には東邦野球部、流山東倶楽部、若葉倶楽部、日鋳倶楽部、流木倶楽部、新川倶楽部、八木倶楽部、鰭ケ崎倶楽部、若草倶楽部、役場チームの10チームが参加している。
日鋳倶楽部の野能選手は、この時、8打数6安打で打撃賞を受賞したという。野能が20才の時である。流山市青田の野能鉄工の事務所に《打撃賞》と銘打った古びた小さな楯が置いてある。

 「この時代の審判は、下駄を履いてやっていた」と、野能は話してから、「日本鋳工は、野球では優勝出来なかったが、市内の陸上競技大会の職場対抗リレーでは、万上や東邦を全然問題にしなかった。20メートルほど離した。日本鋳工は毎年、優勝旗を持って来たんです。私は100メートル12秒3、スパイク履いたら11秒。東葛に根本さんという人が居て、国体に出た人なんですが、その人も日本鋳工に入って来たから、駆け足ではどこにも負けなかった。」と、流山町の職場対抗で活躍した青年社員時代を語ってくれた。

躍進する金属粉末

 黛社長を先頭に、日本金属粉末株式会社の社員はショットブラストマシンの普及宣伝に各地を回った。

 昭和34年6月、浜松市に浜松営業所を開設した。

 当時、各地の代理店に配布した『ショットブラストマシン標準機種の販売方法について』という小冊子に、訪問販売すべき業種と主用途を次のように例示してある。

  • 鋳造業(各種鋳造品の砂落し、表面清掃)
  • 鍛造業(各種鍛造品のスケール落し)
  • 熱処理業(熱処理後のスケール落し)
  • 製鋼工業(鋳物砂、熱処理スケール等の除去)
  • シャリング工業(鋼板・型鋼類のスケール落し)
  • 伸鉄工業(鋼材類のスケール落し)
  • プレス工業(各種加工品の表面仕上げ)
  • 自動車製造業・鉄道車両製造業・重電機業(各種ブラストクリーニングおよびピーニング)
  • 軽電機業・電器具製造業(各種ブラストクリーニングおよびピーニング、ならびに特殊表面仕上げ)
  • コンプレッサー製造業(本体および部品のブラストクリーニング、表面仕上げ)
  • 非鉄鋳造業(鋳造品砂落し)
  • 非鉄金属加工業(地肌の梨地加工または表面仕上前処理)
  • ダイカスト製品製造業(製品の仕上げおよびバリ落し)
  • メッキ工業(メッキの前処理、従来の酸洗いに代わる)
  • ゴム工業(ゴムライニング下地加工、ゴム金型クリーニング等)
  • バネ工業(コイルバネ、板バネ等のピーニング加工)
  • 建設業(メタルフォーム、ジャッキベース、クランプ等器材のコンクリート垢落し)
  • 高圧容器製造業(ボンベ、アキュームレーター等のスケール落し)
  • 高圧ガス充填所(ボンベ類の検査塗装直し時のブラストクリーニング)
  • ネジ工業(熱処理後のスケール落し、ネジ切り後のバリ取り等)

 製造業でのブラストマシンは、驚異的な新兵器となった。当時の日本鋳工のブラストマシン、ピーニングマシンには、MIN(マイン)というマークが付けられた。

 「Mは、黛(まゆずみ)社長のローマ字綴りの頭文字のM。Iは、石井専務の頭文字のI。Nは、技術屋の中谷明さんの頭文字のN」と、野能は言う。このマシンを小型トラックに乗せて、野能は黛社長と共に、浜松市内のお得意様を一軒一軒売り歩いた話をしてくれた。

 「それまで、砂落し、バリ取りは、外注で大勢の作業員が手とかエアータガネでやっていた。そこへうちの機械を持っていくと、一瞬にして終わる。こういう機械を造ってもらっちゃあ困る。われわれ首になっちゃう、と作業員に言われました。」と、野能は回想してくれた。

日本鋼管の系列へ

 昭和38年7月25日付け『鋳造経済新聞』に、「日本金属粉末海外へ躍進か・全工場流山に集結・一貫作業体制なる」という3段見出しの記事が出た。

 「日本金属粉末株式会社(本社=東京都千代田区丸の内・丸ビル内415号室、営業所=同千代田区神田鍛治町2-16)では、創業以来幾多の鋳造機械を業界に送り出し、『マインの鋳機』として、ますます信用を増大しつつあるが、同社の懸案であった流山工場で一貫作業体制が昨年暮れに完成した。
 総工費8千万円を投じて建設された機械組立工場(4百坪)、機械加工工場(百坪)は現在フル操業を行い受注に応えている。(以下略)」

 この記事には、石井社長の顔写真が載っている。黛社長が何時退社したかは不明である。

 石井欣次社長は、佐藤栄作が通産大臣の時代、鋳鍛造業界の自由化対策委員に任命され、日本を代表する経営者たちと交流した。「これが日本金属粉末株式会社経営の一つの転機になった。考え方が変わった」と、石井は次のように記者に語った。

 「自由化されると、世界中のメーカーを相手に仕事をやらねばならない。仕事の規模が大きくなり、年間3億、4億、5億と業績が伸びれば伸びるだけ、お金が必要になる。社長業は資金繰りで大変になるんです。
 付属機器の業界では、大企業の系列に入る動きが出てきた。そこで、わが社でも新日鉄か日本鋼管の系列に入る話が出始めた。私は、堀切さんや株主達と相談し、日本鋼管の系列に入ることにしたのです。」

昭和38年頃日本金属粉末株式会社の社員旅行(箱根の駐車場で)の写真
昭和38年頃日本金属粉末株式会社の社員旅行(箱根の駐車場で)
前列中央の中折れ帽の右が石井社長の写真
前列中央の中折れ帽の右が石井社長

 昭和40年5月、日本鋼管株式会社より日本金属粉末へ役員が出向する。そして昭和41年1月、日本鋼管は資本参加。鋼管から送り込まれた永田一郎が代表取締役となる。

 昭和46年5月、日本金属粉末株式会社は、日本ブラストマシン株式会社と商号を変更した。

 『海事プレス』という雑誌に「日本ブラストマシン株式会社」の紹介記事がある。概要を紹介する。

 「創業25年で同社はブラストマシン専業のメーカーとしての地歩を確固たるものにした。ルーツは旧日本鋳工の幹部数名で設立した日本金属粉末。日本のショットブラスト業界の草創期から、メーカーとしての経験と実績を積み重ね、今日までひたすらショットブラスト一筋に歩み続けた。
 業績は、昭和54年度までの年間売上げ10億円台からその後急速に伸び、56年度16億8千万円、57年度15億6千万円と順調。鋼管の系列では“優良”マーク付きで今後の成長が楽しみな企業の一つ。」

さらば、日本ブラスト

 日本ブラストマシン株式会社は、昭和47年4月に広島県福山市に福山営業所を開設する。常務の石井欣次は、福山営業所長に転出、単身赴任する。

 昭和47年10月14日付けの『中国新聞』のコラム『拡大鏡』に、石井所長の次のような談話が載っている。

 「営業所を開設して約半年になるが、滑りだしはまあまあ順調といったところでしょうか、と悦にいっているのは日本ブラストマシン福山営業所の取締役・石井欣次所長。
 同営業所は中国、九州地区のアフターサービス、営業の拠点として設置されたもの。ショットブラストマシンを中心に各種ブラスト加工装置を扱っているが、とくに大型造船所向けにバキュームブラスターが好調とのこと。(以下略)」

 石井欣次は、12年程で福山から流山に戻り、日本ブラストマシン株式会社の顧問として務めていたが、昭和63年に退社。日本ブラストマシン株式会社山工場は福山市に移転した。

 日本鋳工第一工場の跡地は、つくしんぼ団地となり、三輪野山の日本ブラストマシンの跡地には、現在、大規模な分譲住宅が建設されている。

 流山の産業史から、日本鋳工株式会社の栄光の歴史が消え去ろうとしている。

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