昭和の産業史その6

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ページ番号1013084  更新日 平成29年9月15日 印刷

異形ボルト、オールアンカーは流山生まれ。

毛利元就の三本の矢の教えを守った洞下3兄弟の話

 平成17年6月23日。日本経済新聞に「特殊ネジで世界一を狙う・サンコーテクノ上場」という見出しで、サンコーテクノが22日、ジャスダックに上場。初値は公募価格を22%上回る6600円だったという記事が出た。洞下実サンコーテクノ株時会社社長は、記者会見で「海外事業の拡大を足掛かりに、売上げ高の年率5%の成長、建物の改修・補修などリニューアル分野を強化し、特殊ネジで世界一を狙う」と、念願の上場を果たした喜びと決意を語った。

 サンコーテクノ株式会社の主力製品「あと施工アンカー」は、コンクリートが固まった後で使用する特殊なネジである。今では、高層ビルやダムなどの土木工事から、住宅の照明器具や内外装の取り付けに欠かせない部品。街で見かける自動販売機をセメントに固定するのに使われるのもこのアンカーボルトである。最近は、新潟県中越地震で被災した上越新幹線のトンネルの耐震補強を請け負った。サンコーテクノの耐震補強工法が、いま脚光を浴びているのだ。

洞下実氏の写真
洞下実氏

 平成17年12月6日。記者は、流山工業団地のサンコーテクノ株式会社)流山工場に洞下実社長を訪ねた。40年前、建設業界の救世主になった特殊ネジ「オールアンカー」の開発に賭けた3兄弟の努力を、「昭和の流山産業史」に記録するためである。

 インタビューは、次のような会話で始まった。

 アンカーボルトやファスナーだけじゃなくて、いまや、サンコーテクノの耐震技術と耐震用アンカーは時代の寵児ですね。
洞下実社長:株価が上がっているのも、そこにあります。姉歯設計士の耐震強度偽装問題で市民の間で耐震補強に関心が高まり、お陰様で株価が上がりました。

 アンカーボルトというのは建設資材の中でも小さな部品ですが、機械文明を支えているんですね。
洞下:木造でいうと釘と一緒ですから、なくてはならないものです。建設関係だけじゃなくて、道路関係などでも、なくてはならない商品になりましたからね。

 サンコーテクノが今日の隆盛を迎えられたのは、鰭ケ崎の農家、洞下利雄の3兄弟、2男照夫、3男菊夫、4男実の3人が、「オールアンカー」の開発に見せた絶妙なバトンリレーがあったからですね。
洞下:兄弟力を合わせてというのは父親の遺言です。毛利元就の三本の矢の教え。1本では折れるが、3本なら折れない、兄弟仲よくと。親父の遺言ですから、仲よくやってこれたわけです。

「異形ボルト発売」と、マスコミが報道

 いまから40年前、昭和41年4月27日付けの『日刊建設工業新聞』が私の手元にある。その『経済・建材』欄に「新しい異形ボルト発売」という見出しで、次のような記事が掲載されている。

 「軽量発泡コンクリートやコンクリートブロックの取り付けがワンタッチで迅速に確実に出来るアンカーボルトがお目見えして話題を呼んでいる。三幸商事(社長、洞下菊夫氏)がこのほど市販に乗り出した『オールアンカー(商品名)』がそれで、コンクリート、ブロックのほか鋼材などの材料に植え込みが簡単にでき取り付け効果が非常に大きいボルトである。施工の合理化からとくにコンクリートや軽量発泡コンクリート、コンクリートブロックなどの取り付けは、じん速で確実にすることが要求され、いろいろなアンカーボルトが使用されている。しかし、本格的なプレハブ構造部材で、比重が軽く高温圧蒸気養生してつくった軽量発泡コンクリート器材の取り付けでは、ボルトを打ち込んだあとゆるみが生じ引き抜き強度も弱いなどの欠点があった。こんどお目見えしたオールアンカーは、これらの欠点をなくし、あらゆる材料に植え込みが可能なアンカーで、取り付け作業がワンタッチでじん速に確実にできるよう考案されており、目下特許申請がなされている。」

 三幸商事株式会社は、現在のサンコーテクノ株式会社の前身である。

「オールアンカー」の誕生秘話

1.機材の上から穴あけのイラスト

 東京オリンピックのあった昭和39年、東京は建設ブームに湧いていた。当時、コンクリート壁に器材を取り付けるには、セメント流し込みの時に、アンカーボルトを埋めこんでおく。あるいは、ドライブイットという鉄砲で鋲を打ち込んで固定した。ドライブイットはアメリカからの輸入品で、火薬をつかってセメント壁に鋲を打ち込むので、日本では銃砲所持許可証を持っている人でなければ操作出来ない。


2.アンカーをセット

 洞下兄弟の三番目、菊夫が大学を出て就職したのがドライブイットを発売する会社だった。神田駅前のビル工事現場で、ドライブイットで打ち込んだ鋲が隣のビルの煙草屋に飛び込んで、看板娘に大怪我を負わせたり、ある時は、壁面を貫通して近くで作業していた人のヘルメットに鋲が刺さり、死亡させるという事故が起きていた。ドライブイットは危険。代わるものはないかと関係者が考え始めた頃、ドライブイットで打ち込まなくてもよいアンカーがアメリカから輪入され始めた。


3.ハンマーでピンを打ち込む

 洞下菊夫はドライブイットを販売する会社から独立。東葛高校を出て、名古屋の刃物利器の商社で商売の修行をしていた弟・実と、実の友人でドライブイットの会社では菊夫の後輩だった中島貞好と3人で、昭和39年5月15日、三幸商事株式会社を設立した。


4.アンカーは開脚密着する

 そして、ドライブイットとアンカーボルトを販売し始めた時、菊夫は、お得意先の大手建設会社から「今のアンカーボルトは軽量コンクリート壁には使いにくい。打ち込んだらガバと開いて固定するアンカーボルトが欲しい」と、聞かされた。顧客のニーズには応えなければならない。三幸商事では、早速、ガバと開く新しいアンカーボルトの開発に取り組んだ。


打ち込まれたアンカーの図のイラスト

 平成18年1月11日。洞下菊夫は、その当時のことを、東京の旭産商株式会社から「オールアンカー開発の思い出」として、記者へ次のようなファクスを送ってくれた。


実際に打ち込まれたアンカーの写真

洞下菊夫氏の写真
洞下菊夫氏

 『私も今度の誕生日で満71才になります。本当に月日の流れるのは早いものですね。まるで、急行列車に乗って各駅を通過して行くそんな感じさえいたしております。私の人生70年の間にいろいろな事がございましたが、忘れることの出来ない大きな出来事の一つは、「オールアンカー」の開発です。それを開発するにあたって産む苦しみとでも云いましょうか、口では云い表すことが出来ない苦労を重ねた結果、世に出ることが出来たのでございます。その辺のところを、かい摘まんでお話させていただきます。

 オールアンカーの開発のきっかけは、今から40年ほど前になりますが、リバーサイドビルの新築工事を竹中工務店と大林組の共同企業体で施工しておりました。その現場では、間仕切りに発泡気泡コンクリートブロックが大量に使用されておりました。現場営業に行った時、竹中工務店の所長さんから「気泡コンクリートに使えるアンカーを開発してくれないか」と宿題をいただきました。

 それから、どうすれば気泡コンクリートに効くアンカーが出来るか、毎日そればかり考えておりました。しかし、妙案はなかなか浮かびません。そんなある日、私は徹夜マージャンの寝不足と8月の暑い日だったので、どうにもならなかったので、涼しい映画館にでも入って一眠りしようと思って映画館に入りました。丁度その時上映されていたのが、グレゴリーぺック主演の「白鯨」という映画でした。映画のシーンの中に「モリ」で鯨を仕留める場面が出てきました。その時、これだなと、直感的にひらめきました。

 その「モリ」というのは、鯨のやわらかい肉に突き刺さるとコウモリ傘が逆に開いた状態で突き刺さりますので、30トンから40トンの大きな鯨が暴れても「モリ」が外れることがありませんでした。それをヒントに、早速試作品作りにかかりました。おそらく何百種類の試作品を作ったと思います。それを一つ一つ試験して結果をだしながら、何とか使用してもらえる製品を完成させることが出来ました。早速それを現場に持参して、「テスト」していただいたところ 「OK」のサインが出ました。その現場で使用された本数は約8千本くらいでした。

 その後は各地で使用して頂くようになり、各コンクリートメーカーが仕様書に載せていただくようになりましたので急速に売上げも伸びました。このアンカーが、普通のコンクリートにも使用出来ればと思い、さらなる開発が始まりました。

 ご存知の様に、「オールアンカー」は、ハンマーで芯棒を叩いて開脚させる構造のアンカーです。堅いコンクリートに細い芯棒を叩いて開脚させるのは至難の技なのです。何故なら堅いコンクリートに使用するわけですから、熱処理があまいと、くの字に曲がって使用不可能なのです。さりとて熱処理が高すぎるとピンが折れてしまい使用の段階までいきません。失敗の連続です。試験体の本数は5千本から6千本ぐらい試験したと思います。ドラム缶にほぼ一杯になりました。それにかかった開発期間は1年半か、2年位だったと思います。それでも成功するきっかけすら掴めませんでした。本当に苦労の連続でした。

 そんなある日、私が本田宗一郎の自叙伝を読んでいたら、一瞬はっと思いました。「よい製品を作るには高度の技術と専門的な高度の知識が要求される」と書かれておりました。なるほどと思い、私はすぐに実行に移しました。
当時、私どもの事務所は上野でしたので一番近い大学は東大でした。さっそく東大に行って学生さんに「工学部の先生にお会いしたいのだけど教えて頂けませんか」と尋ねたら、親切丁寧に「あの棟の3階の何号室です」とまで教えて頂きました。すぐに教授に会うことが出来ました。

 「先生、この品物を研究していただけないでしょうか。」と、お願いしましたところ、先生は「君の金儲けのために研究している暇はない。」と、断られました。しかし、ここで諦めたら駄目だと思い、何度も何度もお願いしましたけれども、色よい返事は頂けませんでした。そこで私は、「先生、これに命を賭けているのです。どうしてもやって頂きたいのです。先生がよし分かったと云うまで絶対にここを動きません。」と云って、入り口のドアーの近くに座り込みました。2月の寒い日でした。そうこうしているうちに30分位たったでしょうか、先生が「よし、分かった。」と云って引き受けて頂くことになりました。

 「出来るだけ多くの試験体を持ってきなさい。」と云われ、すぐに届けました。2か月位経ったでしょうか、先生から出来たと云う連絡が入りましたのですぐに行きました。

 その資料は大変立派なもので、焼入り硬度の顕微鏡写真まで入っておりました。その時、先生は、「この品物は芯棒だけ解決したからそれでよいと云うことにはならない。アンカー本体の材料の性能及び材質が大変重要だ。」とおっしゃいました。「材料の選定が大変重要なので、よい人を紹介しますからそこへ行って相談してみて下さい。」と云われ、先生は名刺の裏に紹介状を書いてくれました。

 その方は、ある鉄鋼メーカーの常務さんで、先生の学生時代の親友だと云っておられました。早速、紹介状を持って鉄鋼メーカーにお伺いして常務さんにお会いすることが出来ました。そして、今までの経緯や全ての事情をお話致しました。

 ところ、「よく分かりました。」と云って、常務さんは「アンカーにあった材料を造ってあげましょう。」と云って下さいました。そして、それから2、3か月位して材料が出来上がってきました。その材料で試作品を造り、そして東大で研究して頂いた資料で熱処理したピンで実験しましたところ、ものの見事に成功致しました。このようにして、「オールアンカー」は世に出ることが出来ました。今では世界中で使用されております。最後になりますが、いつも変わらぬご愛顧を頂いております皆様方に心から感謝すると共に厚く御礼申し上げます。』

鰭ケ崎に三幸工業株式会社を設立する

 従来のアンカーボルトはメスネジだ。三幸商事株式会社の新しい異形のアンカーボルトは、オスネジのアンカーボルトの芯をくり抜いて、そこへ芯棒を入れ、打ち込むと先端が開脚するボルトだ。三幸商事株式会社は、これを「オールアンカー」と命名して特許をとった。そして本格的に量産に乗り出すことにしたのだが引き受けてくれる工場がない。ボルトに中空の穴を開ける場合、穴の径の5倍を限界とした業界の常識を破り、オールアンカーは、4ミリメートルの穴を60ミリメートル、6ミリメートルの穴を120ミリメートルも開けなければならないので、引き受けてくれる工場がなかったのである。

三幸工業株式会社流山工場(昭和60年10月撮影)の写真
三幸工業株式会社流山工場(昭和60年10月撮影)

 その頃、洞下兄弟の二番目、照夫は兄の昭二が武藤家に養子に入ったので父の跡をとり、専業農家として野菜づくりに励んでいた。三幸商事株式会社が特許を取った「オールアンカー」の製造を引き受けてくれる工場がないなら、自分たちで工場を持とうと、照夫は流山の農業の将来を見越して、農業から工業への転換を決意する。銀行や農協から資金を借り入れるために父・利雄を社長に、NHKの技術畑に居た長兄・武藤昭二を副社長に、資本金200万円の三幸工業株式会社を東京都台東区下谷に設立。鰭ケ崎の畑の一部を潰して12坪のプレハブの工場を建て、ターレット旋盤などを入れて、昭和41年6月、夢のアンカーボルトの製造に乗り出した。

洞下照夫氏の写真
洞下照夫氏

 洞下照夫は、イメージしている一本の『オールアンカー』を創るために、まず、効率の高い自社専用の工作機械を開発しなければならなかった。「それに伴う治工具、刃物研磨、工作油の研究もありました。農業から工業へ、百八十度転換した素人の私が、弟達からいろいろな事を要求されながら、材料問屋さん、機械屋さんを頼りに、専用機と治工具を一つ一つ協同開発していったのです。信頼関係がなければ一歩も進みません。道を開いたのは熱意でした。工作油も、油であればいいと思うでしょうけれども、切削性のいい油と、潤滑性の高い油がうまく調合されていないと、研磨機の刃持ちが悪いんです。」と、照夫は語った。

 夢のアンカーボルトに適する鉄鋼素材の選別も大変だった。「材料屋さん、問屋さんたちと、どれが一番加工性がいいか、この商品が果たしてうちのアンカーの性質とマッチしているか、していないか探し出していかなければならない。ハンマーで芯棒を叩いて開脚させる構造のアンカーですから、芯棒の熱処理が大事なんです。熱処理屋へ持って行って、こういうふうにして下さいと依頼する。素材のカーボンの量によって温度が上がる。理想的な芯棒は、芯が堅くて、回りが少し柔らかめの方がいいんです。そういう形にするためにはどういう素材がいいのか、高炉メーカーの大同特殊鋼さんの技術陣と共同開発して、うちの商品に一番マッチした素材を選択してもらったんです。この素材の熱処理と焼き戻しはどうすべきか、とうしなければいけないかは、うちでやっておれませんから外注でやるわけです。ピンを万力でくわえて、ハンマーで叩くと15度、20度ぐらい曲がるが折れない形が一番うちの商品にいい。これがいい按配だなという形にまで専門の技術屋にお願いしたのです。」と、照夫は語った。これまでのステンレスの加工技術の常識を超えた先端が開脚する構造の「オールアンカー」は、血のでるような苦労の末に誕生したわけだ。

 オールアンカーの全国販売が開始されたのは昭和43年2月からである。高まる需要に応えるために、照夫は親しい農家の友人を説いて、昭和42年10月、流山市内に協力工場を発足させる。「オールアンカーを製造する三幸グループ(協力工場)を組織できたのは、照夫兄貴がすごく人間性を発揮してくれたからです。」と、弟の実は語る。

すべては発想から始まる

 洞下照夫は、三幸工業株式会社を要に、有限会社三栄工業所、有限会社三大工業所、株式会社三修ファステム、三宮工業株式会社、有限会社三倉工業所、三幸工業有限会社、有限会社三清工業所という7つの協力会社を有機的に結合した。

 照夫は語る。「下請け企業と協力会社に対する生産技術の指導が大変でした。機械メーカーさんとタイアップして、専用機を開発する。うちで、1台購入して、稼働してみて良ければ、協力会社にその工作機械を入れるわけです。それで、売上げから長期間で返済してもらう。協力工場への技術指導は大変でした。皆さん全くの素人ですから、言葉では言い表わせない苦労を重ねました。1本のオールアンカーを造るのに、何工程もあるわけで、その工程別の機械を揃えなければいけない。協力会社への支払いは現金払いで、生産で利益が上がれば生産奨励金を出しました。そうしなかったら育たなかったんです。」

 『サンコー・インダストリー・グループ』というPR誌に「すべては発想から始まる」というタイトルで、照夫は次のような文章を書いている。

 「解決していかなければならない問題が山のように立ちはだかりました。挫折は出来ません。後へは引けませんでした。苦しい日々の連続です。ですが、だれひとり確信はゆらぎませんでした。オールアンカーの持つ意味と価値を理解し、共に生産しよう、新しいアンカーの歴史を創造しようという仲間が集まってきました。みんな機械の機の字も知りません。ゼロからのスタートです。オールアンカーには不思議な魅力があります。だれもが、もくもくと未知の技術に挑み、生産に全力をあげました。オールアンカーはすくすくと成長していきました。共に生産する仲間も育ちました。これが、現在のサンコーインダストリアルグループです。すべては、“発想”から始まりました。発想を真剣に受け止めたので今があります。現在に至るまで多種類の「あと施工アンカー」「ルーフィング・サイディング関連商品」「コンクリート用の大・小口径のドリル」など、締結にかかわるシステムを製品という形にして世に送り出してきました。」

新製品の開発と、生産体制の強化は、次のように着々と進められた。

昭和44年3月:新製品「折抜用ルーフボルト」を開発、製造開始。同年8月に資本金を600万円に増資。
昭和46年4月:父・利雄死去により、長兄昭二社長に就任。
昭和47年5月:三幸商事株式会社と共同の技術研究所を開設。商品開発部門を確立。
昭和47年9月:資本金を1200万円に増資。
昭和49年3月:流山市西平井に第2工場建設。同年8月、資本金3200万円に増資。
昭和50年4月:本社工場を鉄骨2階建てに立替え。同年6月、新商品サンルー開発、製造開始。
昭和51年2月:洞下照夫社長に就任。同年5月、奈良市にドリル部門工場新設、オールドリル、コアドリル製造開始。

3階建ての無人倉庫(クーリアシステム)を完成(昭和57年4月)した時の写真
3階建ての無人倉庫(クーリアシステム)を完成(昭和57年4月)

昭和52年2月:資本金4800万円に増資。
昭和57年4月:本社工場に3階建てクーリアシステム(自動倉庫)を開設。
昭和62年3月:高度塑性(そせい)加工の技術に挑む関宿工場を建設。
平成3年5月:本社工場を流山市西深井の流山工業団地に新築移転。

 ちなみに、三幸商事株式会社は、海外進出に積極的に挑戦し、昭和63年に米国にサンコーテクノUSA。サンコーファステム・タイランドをタイ・バンコクに設立。平成元年には台湾に進出。海外現地法人「三幸商事顧問股(こもんこんす)・有限公司」を設立している。

アンカーボルトの全国販売ネットを確立

 昭和45年、兄の菊夫からバトンタッチして三幸商事株式会社の社長に就任した洞下実は次のように語った。

 「照夫兄貴は、あとから入ってきて、製造の方に専念した。私は、製造の方は兄貴にまかして、営業の方を全国展開しなければいけないから、昭和42年から、北海道の旭川から南は九州まで、オールアンカーの販路開拓のために10年かけて日本全国を歩きました。まだ無名の商品ですから、各地の問屋さんも全く知識がないので理解していただくまでに手間隙かかったんです。地方の電気屋さんにアンカー売り込みに行ったら、『アンカなら、うちが専門だよ。』と。昔は電気アンカ売ってましたからね。そうじゃない、電気工事に使うアンカーボルトですよと。町に入ると、まず電話帳でユーザーを調べ、看板屋さん、電気屋さんを軒並み訪問して、オールアンカーの説明をして50本、100本と注文を取る。注文票は、三幸商事株式会社宛てではなくて、その地の機械工具の問屋や金物店さんにしてもらい、その注文票を持って、問屋さんや機械工具屋さんを訪ね、説得してオールアンカーの在庫を置いてもらったんです。」

 不況にも強い全国ネットの販売網はこのように、ユーザーの育成から始まり、問屋、全国の代理店網の設置へと、下から積み上げられていった。

 平成5年8月27日。三幸工業株式会社は27期株主総会でこれまで陣頭指揮をとってきた洞下照夫社長を会長に、強力な全国ネットの販売網を確立した三幸商事株式会社の洞下実社長に三幸工業の社長を兼任させ、3人の若手を抜てきして取締役に据え、21世紀へむけて企業の再構築を図った。洞下会長は「三幸工業を社会が必要としている企業体に創り上げねばならない。開発型企業でなかったら企業の永遠の繁栄は図れない。私たち三幸グループはそれをやり遂げます。」と語ったものである。

 そして、3年後の平成8年4月1日、販売を担当した三幸商事株式会社と製造を担った三幸工業株式会社は対等合併を図り、社名を「サンコーテクノ株式会社」と改称した。

 合併前の平成8年3月中旬、流山工業団地にある三幸工業流山工場に洞下実社長を訪ねると、全国17か所の営業拠点からの注文に間に合わせるのに懸命の生産を続けていた。株式会社三修ファステム、有限会社三大工業所などグループ7社(協力工場)も、休日稼働しても間に合わないほどの忙しさだった。折からの不況はどこ吹く風だった。これは、阪神大震災の復興需要を起爆に、耐震補強用として「あと施工アンカー」への需要が急増したためだ。

 この時、洞下実社長は「経営の基本として大事にしていることが三つあります。第一は開発型企業であること。第二は人を大切にする心の経営。第三は情報の共有化です。得意先が求めている製品を創る。商道(企業倫理)は不変ですが商法(販売政策)は常に新しく、販売と製造の両部門が情報を共有化することが大事。クレームは開発の宝庫です。」と語った。

 平成17年7月25日付け日刊工業新聞に、「あと施工アンカーで世界一に」という見出しで、サンコーテクノ株式会社の特集が組まれ、洞下実社長と、日刊工業新聞社の千野俊猛社長の次のような対談が掲載された。

千野:上場されまして、社長ご自身どんな感慨をお持ちですか。
洞下:もともと、プライベートカンパニーからパブリックカンパニーにしたいという気持ちは強かった。上場に際しての願いは、企業価値の向上。もう一つは、コーポレートブランド力を高めたいと強く願ってきました。
千野:あと施工アンカーなどが主体ですが、経営の柱として何本ぐらいをお考えですか。
洞下:あと施工アンカーは本業ですが、これに付随する商品が結構あります。穴を開けるドリルが必要ですし、また、建設用のファスニング、つまり留めるものですが、コンクリート以外にも鉄と木を締結するとか、屋根を取り付けるものとか数多い。現在好調で、アンカーとは違う留め金具はこれから大きくなります。もう一つがリニューアル部門。戦後の建設ラッシュ時の建物が老朽化してくるが、全部壊して建て替えるといっても、産業廃棄物問題もあって大変、そうなると改築が増えてくる。
千野:サンコーテクノの出番ですね。研究開発投資は、売上げの3%と決めてやっておられる。この業界では相当高いですよね。
洞下:顧客から「こういうのできないか」とニーズが持ち込まれます。これに懸命にこたえようとすると、それなりの頭脳集団を集める必要があります。
千野:研究員は今どれくらいですか。
洞下:社員の約10%、31人になっています。
千野:それにしても従業員一人当たりの売上げ高は大きいですね。
洞下:売上げ高は、平成17年3月期で149億円ですから5,000万円近い。経常利益率は今5%前後です。
千野:メーカーではなかなかのレベルですね。
洞下:バブル崩壊後、売上げを落とさずにきています。創業以来、赤字を出したことがないというのが一番の自慢ですね。

写真18
サンコーテクノ株式会社流山工場

 記者は、サンコーテクノ株式会社流山工場でのインタビューの最後に、洞下実社長に、人生の師はどなたか聞いてみた。

 「私が商売の師として尊敬している方は、名古屋で修行時代の上司で亀井総一郎さんです。人生の師は、千葉県の滝口長太郎という方。やっぱり師を持たなければだめですね。」と、言って、師・滝口長太郎の言葉、「打つ手は無限」を教えてくれた。

 『すばらしい名画よりも・とてもすてきな宝石よりも・もっともっと大切なものを・私は持っている・どんな時でも・どんな苦しい場合でも・愚痴を言わない・参ったと・泣きごとを言わない・何か方法はないだろうか・何か方法はあるはずだ・周囲を見回わしてみよう・いろんな角度から眺めてみよう・人の知恵も借りてみよう・必ず何とかなるものである・なぜなら・打つ手は常に無限であるからだ。滝口長太郎』

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