昭和の産業史その7

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ページ番号1013085  更新日 平成29年9月15日 印刷

帝国清酒株式会社から東邦酒類株式会社へ

昭和6年から33年間、流山で活躍した産業人たちの物語

 現在、流山市内の全世帯に配布されている『広報ながれやま』の前身は、昭和27年9月20日に中村寛次町長が創刊した『流山町報』である。その第5号(昭和28年1月20日発行)の『町の聲』に、「江戸川の流れに影を写し渡舟が静かに向岸に漕いで行く。風もない小春日和に万上と東邦の煙突の煙が真っ直に立ちのぼっている。この様な景色を眺めていると静穏な町という感じがする。(以下略)」という随想が載っている。

笹岡了一画伯が描いた江戸川風景。左岸に東邦の蒸留塔と煙突。川下に流山橋が見える。東邦従組発行の機関誌「東邦」の表紙の写真
笹岡了一画伯が描いた江戸川風景。左岸に東邦の蒸留塔と煙突。川下に流山橋が見える。東邦従組発行の機関誌「東邦」の表紙より。

 こういう景色を知っている流山っ子は、今の流山には少なくなった。万上というのは、万上ミリンを醸造しているキッコーマン株式会社酒造工場。東邦というのは、東邦酒類株式会社流山工場で、銘酒「東菊」や、焼酎「ハイチュー」、「コリー・ウィスキー」など、一世を風靡したヒット商品を世にだしていた合成清酒のメーカー。両社の蒸留塔と煙突は、流山の酒造業のシンボルで、江戸川の堤防から眺められ、流山の風物詩として流山っ子が自慢にしていた風景である。

 東邦酒類は、その頃、日本の蒸留酒酒造業界大手五社に属し、資本金2億円、従業員は2百名を越える流山の大企業だった。それが、昭和39年12月、手束二郎社長が全従業員に配布した文書『明年4月1日をもって三楽オーシャン株式会社と合併、当社は解散に踏み切らざるを得ない事態に立ち至った。』で、一方的な解散劇に追い込まれ、当時の新聞に「従業員二百十四人路頭に迷う」と書かれた。今では、流山の幻の大企業となってしまったのである。

 流山の産業史に、東邦酒類株式会社はいつ頃登場したのか。そもそも合成清酒とは何か。

 合成清酒は、米を使わないで製造する清酒に類似した人工酒である。大正7年に富山県で起こった米騒動以降、合成清酒の研究が日本で始まったといわれる。

 『三楽50年史』(昭和61年、三楽株式会社刊)には、『帝国清酒株式会社の設立』という見出しで次のような記事が残されている。

 『昭和初期の合成清酒製造法はまだ理研式に統一されておらず、種々の製法が試みられていた。当時、九州の大日本酒類醸造株式会社では、味淋式という方法で合成清酒の製造を行っていた。社長の森英示は合成清酒での関東地区進出と、味淋法からの転換を企図し、合同酒精株式会社社長の野口喜一郎らと相談の上、昭和6年東京に資本金25万円の帝国清酒株式髄者を設立した。製造方法としては、理研式を希望したが、理研式の特許は大和醸造株式会社が専有していたので特許分権が得られず、そこで東大の高橋偵造博士に交渉し、その特許になる高橋式の使用を認めてもらった。工場は千葉県流山町の「天晴味淋」の工場を譲り受けた。』

 東邦酒類株式会社の歴史は、昭和6年6月8日、東京の永代橋角のレンガ造り4階建のビルの一室に設立された帝国清酒株式会社から始まるのである。

秋元本家の文書より

 平成17年3月25日に刊行された『流山の醸造業2.本文編』(市立博物館調査研究報告書22)に、昭和6年、流山町の秋元三左衛門が東京に本社を置いた帝国清酒株式会社と取り交わした「天晴みりん」醸造蔵の賃貸契約書(秋元家文書No.2262)が載っている。

 「帝国清酒株式会社ヲ乙トシ工場賃貸借契約ヲナシ同年拾弐月拾四日東京市神田区美土代町の公証人田中秀夫役場ニ於テ本社(記者注・秋元合資会社)代表社員秋元三左衛門及び支配人風見百之助並ニ帝国清酒株式会社取締役社長堀越孝次郎専務取締役江川種太郎立會ノ下ニ工場賃貸借証書ヲ作成シ公証シタリ」

 この契約書の第一条は「甲ハ其所有ニ係ル千葉県東葛飾郡流山町大字流山六百六拾九番地ノ弐及参所在醸造工場及別紙目録記載ノ通リ附属建物並ニ敷地及醸造用機械器具有形ノ侭乙ニ賃貸スルコトヲ約シ乙ハ之レヲ賃借スルコトヲ約シタリ」

 第二条は「賃貸借料ハ壱ケ年金四千五百円也トシ毎半ケ年分宛ヲ一月十五日及七月十五日ニ甲若シクハ甲ノ指定スル者方ヘ持参前納スルモノトス賃貸借料支払義務ハ昭和七年一月一日ヨリ発生スルモノトス」というもの。

 秋元合資会社が帝国清酒に貸出した醸造工場、醸造用機械は次の通り。

秋元合資会社が帝国清酒に貸出した醸造工場・醸造用機械
醸造工場 構造 床面積 醸造用機械器具
みりん工場 三方土蔵瓦葺2階建 159.00坪 直径6フィート 長サ20フィート ランカンシャ式汽罐 1台
みりん工場 三方土蔵瓦葺2階建 51.75坪 連式横置式 15.9馬力汽罐 1台
蒸溜場 木造セメント瓦葺卸 26.50坪 六四六ウオーシントンポンプ 2台
みりん工場 木造瓦葺平家建 67.50坪 三二三ウオーシントンポンプ 1台
納屋 木造瓦葺平家建 64.25坪 1インチ半タービンポンプ 1台
みりん工場 木造瓦葺2階建 144.50坪 鉄製方10尺角ストックタンク 4個
みりん工場 木造瓦葺2階建 60.00坪 昇降機付精米機一式 4個
みりん工場 二方土蔵瓦葺2階建 166.00坪 水圧式圧搾機一式 2個
みりん工場 二方土蔵瓦葺2階建 30.00坪 手動圧搾機一式 1個
みりん工場 木造瓦葺平家建 129.50坪 鉄製大釜 2個
検査室 木造亜鉛葺2階建 3.00坪 洗米器一式 1個
検査室 木造亜鉛葺2階建 3.00坪 高さ65尺鉄筋コンクリート煙筒 1本

(注)流山市教育委員会発行『流山の醸造業2』より転載

秋元合資会社が帝国清酒に貸出した付属建物
付属建物 構造 床面積
石炭置場 木造瓦葺平家建 18.00坪
納屋 木造瓦葺平家建 21.50坪
事務所及樽工場 木造瓦葺平家建 20.00坪
事務所及樽工場 付属木造瓦葺 4.00坪
事務所及樽工場 付属木造亜鉛葺卸 1.50坪
機械室米場 木造瓦葺平家建 55.75坪
石炭置場 付属木造瓦葺卸 3.50坪
便所 木造瓦葺平家建 3.00坪
便所 木造亜鉛葺平家建 1.50坪

(注)流山市教育委員会発行『流山の醸造業2』より転載

 流山市民は先刻承知しているが、秋元三左衛門家は、白みりん「天晴」(あっぱれ)の醸造元で、白みりん「万上」(まんじょう)を醸造する堀切紋次郎家(相模屋)とともに、流山を代表する酒造家である。幕末には、一大消費地の江戸へ、江戸川で活躍した高瀬船で流山産の「白みりん」を送り込み、またたく間に関西物(赤みりん)を圧倒し、味淋と云えば流山、流山と云えば味淋と云われる程の声価を獲得した。明治6年、オーストリアのウィーンで開かれた万国博覧会には「万上」と共に「天晴」も出品し、共に有功賞牌を授与されている。

 ところで、帝国清酒株式会社と工場の賃貸借契約を結んだ秋元合資会社は、昭和9年5月26日、味淋の酒類製造免許取消の申請書を提出し、6月22日に認められている。ちなみに昭和15年、秋元合資会社はその資産の全てを帝国清酒株式会社に買収され、酒造業から撤退した。

帝国清酒株式会社の発足

 帝国清酒株式会社の大株主は、北海道は北の誉酒造ひの野口喜一郎と、東京・新川の酒類問屋・丸越商店の堀越孝次郎、長崎の酒造家・大日本酒類醸造株式会社の森英示の3人である。
帝国清酒ひの堀越孝次郎社長と共に、昭和6年12月14日、東京の公証人田中秀夫役場に出席して秋元合資会社の工場の賃貸借契約に立ち会った江川種太郎専務は、長崎の大日本酒類醸造の森英示社長の友人で、新会社に専務として送り込まれた人である。

 江川種太郎は後年、「帝国清酒株式会社の発足」という題で、400字詰原稿用紙で5枚余の記録を残している。これは、メルシャン株式会社広報室から流山博物館に提供されたもの。最初の部分を抜粋してお目にかける。

 『昭和6年、帝国清酒株式会社が創立された。この会社の創設は九州長崎県の森英示氏の提唱によるもの。同氏は代々清酒醸造家でありながら、新しい酒に目をつけ、まず、新式焼酎に進出し、群小の製造業者を統合し、ついで全国一本の聯盟会を作って同業界の安定をなしとげた功労者である。同氏はまた、合成清酒の将来性のあることを見て、理化学研究所に鈴木梅太郎先生の理研式合成清酒の製造特許の分権を交渉したが、理研式の合成酒の特許権は、大和醸造株式会社が独占していてどうにもできなかった。そこで、鈴木式と大同小異と思われる高橋偵造先生の特許により合成酒の製造を始めようと図り、同先生より分権の承諾を得た。そこで会社創立にかかり、新川の酒問屋堀越商店主堀越孝次郎氏、合同酒精株式会社の野口喜一郎氏と協議の上、昭和6年6月、資本金25万円の新会社帝国清酒株式会社を創立し、社長に堀越氏、専務に江川種太郎、支配人に加藤正雄氏を選任して発足した。本社は東京・新川に置き、工場は各方面を物色した結果水質が良く水量の豊富な千葉県流山町の「天晴味淋」の工場を賃貸借し、工場内を改造し、いよいよ高橋式合成清酒の製造に着手した。
 もともと、高橋先生は学会では鈴木先生と並ぶ学者であり、東京大学の農学部長をも歴任された教授で、この特許を工業化するために、自分に代わり指導監督として坂口謹一郎先生を派遣され、会社の技師長寺島与三太郎氏、技師土井新次氏、同池田益美氏を督励され、技術上の指導と監督をされた。
 そこで工場設備であるが、合成清酒の良否は、かかって主原料であるアルコールの品質が優良であることが必要と思われるので、蒸留機の新設に心を注ぎ、大阪高橋鉄工所に依頼して、モロミ200石取りのギョーム式蒸留機を設備した。ついで清酒の旨味成分である良質のフマール酸、コハク酸は市場に品物がなかったので、自家製造するほかに道がなく、工場内にそれら酸類を造る設備を整え、ブドウ糖は幸い参松より供給をうけていよいよ製造を開始した。』

 坂口謹一郎と言えば、発酵微生物学者。文化勲章を受章した「お酒の博士」として有名な人である。若き学究時代に流山の帝国清酒株式会社で合成清酒の工業化の指導に当たっていたというから世間は狭いものである。

 江川種太郎の記録を続けよう。

 『出来たアルコールはやや良質のものであったが、他の酸類、ブドウ糖などそのいずれもが十分でなかったが、翌7年中には純合成清酒として「躍進」「恵美富士」「妙齢」の酒銘でボツボツ出荷した。しかし市場の売行きは悪く、このままの品質では、とうてい販売の自信がなかった。
 当時の酒精及び酒精含有飲料税法によると、合成清酒に原料として清酒を混入してもよいことになっていたので、清酒を法の許す範囲で混入したところ、なかなかよい酒質のものとなったので、4斗樽に樽詰して出荷して売れ行きも良好であった。しかるに、大問題が発生した。春に出荷したものが、梅雨期から夏季になると、発酵変質し、火落ちするものが続出して相当量の返品を受けた。倉庫に積んである樽が、ポンポンとはね、樽の鏡を吹っ飛ばすという状態で、危険で倉庫に入れられないという始末。爆弾酒の異名まで受けた。この返品について、坂口先生はじめ会社の技術連と協議を重ね対策を講じて、次年度はこのような醜態をくり返さないよう十分注意したが、翌9年度も夏に向かうとあいかわらず発酵が起こり、ふたたび多数の返品という不幸な結果を見ることとなった。返品された発酵酒はバッタ屋を通して処分したものの、会社は2年つづいた返品による損失が莫大で、翌9年10月、私は指導者の坂口先生とも相談の結果、高橋先生との特許実施契約を解除してもらい、同時に会社への損失と、会社の信用失墜の責めを負って私が辞任したのである。』

 月刊タウン誌『流山わがまち』は、昭和60年5月号で流山産業人国記「さらば東邦酒類よ!」という特集を組んだその座談会「東邦酒類昔ばなし」に出席した一人、佐藤好平(74才)は、江川専務に誘われて入社した経緯を次のように語っている。

 「私が長崎高商(現・長崎大学)を出たのは昭和8年3月、当時の江川種太郎専務と私の伯父が親友だった。米を使わないで出来る新しい日本酒を製造する会社が出来た。ひとつ将来性のあるところへ入ってみないか、という話で、入社した。」

 佐藤好平は、長崎から早速、流山に赴任。後年、東邦酒類株式会社の常務となる。

昭和9年、新陣容で再建を図る。

 昭和9年11月。堀越孝次郎初代社長は辞任し、代わって大日本酒類醸造株式会社社長の森英示が二代目社長に就任、札幌「北の誉」から中口政吉支配人が常務取締役として着任し、資本金を50万円に増資する。中口政吉を帝国清酒に推薦したのは、森英示の後を受けて昭和24年4月、3代目社長に就任した籾谷知治である。

 籾谷知治は、昭和31年11月1日発行の『東邦社内報22号』に「東邦酒類株式会社創業二十五周年に当って」と題して、次のような思い出を書いている。

 『昭和6年、合成清酒界の幼稚な揺籃時代、流山の味淋工場を借り受けて将来の酒業界の変遷の夢を描いて立ち上がり、3年にして当時25万円の資本金を一応無にしたが、之に屈せず更に昭和9年に前重役陣が白紙委任状を提出して総退陣し、出資株主に冑を脱ぎ、更に新重役に依って再起を計ったという悲壮な昔日がありました。

 その時、私は関西灘の酒造本場、御影で清酒を自己の力限り扱っていた矢先、先代森社長と野口相談役が、帝国清酒株式会社の再起を計られたので、常務として是非之に入社せよとの相談があり、兎に角、工場を一度見てみようという事になった。

 丁度10月の台風時で、茅場町の東洋ホテルに泊まった朝は、30メートルぐらいの暴風で、街の看板は元より屋根瓦まで飛散してうっかり外にも出られなかった。午後漸く之が静まって流山工場に出掛け、蜘蛛の巣だらけの暗い味淋蔵の散漫な設備を案内されましたが、私も自己経営の緒に就いたばかりで、どうしても之を閉鎖して直ちにお手伝いする事が出来ず、当時、札幌、西尾酒造の主任支配人であった中口氏に出馬を勧め、昭和18年まで森社長の補佐を引き受けて貰って、今日の基礎を造りあげることが出来た。

 然し宿縁と言うものは面白いもので、第二次大戦により食料が逼迫し、酒造米も極度に切詰められてきたので、日本の将来も愈々危機に瀕するのではと私は考え、関西蔵、東京の八か所の酒造蔵、販売網を一先ず閉鎖する方針をたて、東京へ引揚げたその時、改めて又、森社長と野口相談役から中口常務の中央酒類転出の後を引き受けてくれるよう、御厚意ある交渉を頂き、漸く腰をあげて、今日に至ったわけである。(以下略)』

「北の誉」の野口喜一郎

 昭和7年、米を使わないで造る「人工酒」、合成清酒を製造する帝国清酒株式会社の工場を、流山で興した森英示、野口喜一郎、堀越孝次郎の3人は、どんな経歴の人物だったかを調べるため、東京の酒情報館、日本蒸留酒酒造組合などを回り帝国清酒株式会社の資料を捜したが、昭和初期の酒造家、酒類卸問屋の歴史、業界列伝のような文献は見当たらなかった。然し幸いにも、小樽の北の誉酒造株式会社管理部の野口雅史氏から『野口商店店祖野口吉次郎の生涯』という本が送られてきたので、野口喜一郎の経歴は知ることが出来た。

 野口喜一郎は、明治20年10月18日、野口吉次郎の次男として小樽の呉服・荒物の大店、石橋商店の住み込み部屋で生まれた。父吉次郎が石橋商店に入店して半年目だった。父は金沢生まれ。26歳の時、醤油の小売店を金沢象眼町に開いて独立。酒造りにも乗り出して失敗。大きな借金を背負い再起を図り北海道の小樽に渡った。古着の行商人から石炭積み込みの人夫として懸命に働いたが生活はドン底。小樽の大商人石橋彦三郎が醤油事業に乗り出すために杜氏を募集している事を知り、親子3人食べられるだけで結構ですと、3年間無給で働くという約束で入店した。しかし、間もなく生まれてくる喜一郎は育てられない。他所へ出すことにした。この話を聞いた店主、石橋彦三郎は、「男の子は他所へ呉れるものではない。喜一郎の分として別に米1俵を給与するから、大事に育てるように」。この一言で、かろうじて喜一郎は、親の膝下で育つことになったという。

 石橋彦三郎の醤油事業は、吉次郎たちの働きで明治・大正と発展しつづけ、最盛期には2万石にも達し、野田の茂木(キッコーマン)と、上州館林の正田(キッコーショウ)とならび天下の御三家の一つに数えられるに至った。

 明治30年、吉次郎は石橋主人の絶大な支援を得て46才で野口吉次郎商店を小樽に設立した。小樽へ来て11年目だった。明治33年には旭川に支店を出し、明治35年には旭川店で清酒「北の誉」の醸造に本格的に乗り出す。

 喜一郎は明治39年3月、小樽中学1期生として卒業。1年志願兵を受験し旭川輜重兵第七大隊に入隊、軍曹で除隊後、父の店に入る。明治41年、52才の吉次郎は第一線から退く。明治42年、喜一郎は予備陸軍輜重兵少尉に任官。明治44年、業績の発展にともない野口吉次郎旭川店を、二代目社長喜一郎の発意で野口合資会社と組織を変更した。

 注目すべきは、店主側が資本を独占せず、功労のあるものと持ち分を同額にしたこと。出資金の総額2万4千円。その持分は、野口吉次郎6千円、西尾長次郎6千円、岡田重次郎6千円、西竹吉6千円とし、無限責任社員(代表者)に重次郎、竹吉が就任した。

 ちなみに、大正10年の北海道の2千石以上の酒造業者の造石高は次の通り。

大正10年の北海道の2千石以上の酒造業者の造石高
所在地 製造業者 造石高 代表銘柄 代表者
札幌 札幌酒造合名会社 6,350 富久天狗 本郷嘉之助
函館 菅谷合名会社 4,579 五稜正宗 兵藤栄作
小樽 野口吉次郎商店 4,251 北の誉 野口喜一郎
旭川 笠原合名会社 4,236 常盤泉 笠原定蔵
旭川 野口合資会社 3,616 北の誉 岡田重次郎
栗山 小林米三郎商店 3,547 北の錦 岡田重次郎
旭川 大谷岩太郎 3,483 旭正宗 岡田重次郎
小樽 岡田合名会社 3,462 巴里 岡田市松
小樽 本間賢次郎商店 2,601 正泉 岡田市松
札幌 片岡合名会社 2,549 千歳鶴 片岡唯一郎
札幌 西尾長次郎商店 2,406 北の誉 片岡唯一郎
旭川 小桧山鉄三郎 2,403 旭高砂 片岡唯一郎
室蘭 小林秀弥商店 2,179 香蘭 片岡唯一郎

 酒造開始から15年目に当たる大正10年には北海道148酒造家のうちでは第5位、旭川では2位を占めた。

 『野口商店店祖野口吉次郎の生涯』(平成2年12月30日発刊)の著者・関正燈によると「札幌図書館に、日本実業社刊行の大正15年版『北海道実業人名鑑』がある。その中に、明治開拓時代から大正にかけ、北海道実業界で名前を残した六十余名の人々の評論が掲載されている。その中でとくに目を引いたのは、人生哲学において、きわめて相似した二人の人物がいたことで、その一人は札幌今井百貨店の創業者今井藤七であり、もう一人は小樽の野口商店の始祖野口吉次郎であった。どういう点が似ていたか。
 一、二人とも、生涯一人一業に徹したこと。
 二、ともに北海道斯業界のトップでありながら、表面に出ることなく身を慎み、常に謙虚であったこと。
 三、敬神・崇仏の念篤く、報恩・感謝を経営の理念としたこと。また金融業に手を染めなかったこと。
 四、政治に関与することを固く禁じこれを家憲とした。その所信は、家業がおろそかになること、売名につながるものとして極度に嫌った。
 五、力以上のことは絶対にしなかったこと。」

 野口吉次郎の処世訓は、次のようなものという。

 一、いい気になるな。
 一、我が気にまかすな。
 一、我が身に値打ちをつけるな。
 一、人の骨折りを盗むな。
 一、損しても徳を取れ。

 関正燈は、野口喜一郎について次のように書いている。

 「喜一郎の最も偉いと思うことは、その篤き孝心だった。大正デモクラシー時代の青年としては、稀にみるもので、親の精神をしっかりと継承していたこと。その最たるものに仏法をしっかりと相続したことが挙げられる。氏が体験した明治の軍隊は昭和時代に見られる下克上の軍隊ではなく、社会の規範として通用する立派なものを持っていた。喜一郎の日常生活、また関係会社についての指導原理は、ことごとく良き時代の軍隊に見られた整然たる秩序、組織運営の合理性に基づいている。小樽では最初の1年志願兵だった喜一郎を見習い、小樽の商家は嗣子の多くを1年志願兵に出したという。これらの人々にとって野口中尉(小樽在郷軍人分会長)は大先輩であったし、また二代目たちの指導者でもあった。これらの人たちは、在郷軍人会という組織を通じ、経済界はいうに及ばず各方面に大きな影響を持っていたといわれ、小樽の近代化にとっても喜一郎は元老的存在だった。」

 喜一郎は、大正5年に北海道で最初のホテルである北海ホテルの建設に参加。大正9年には北樺太に北洋商行を設立、北海ホテル旭川支店を建設。大正13年には、旭川合同酒精株式会社の再建を一族で担当している。蜂ブドー酒を東京で大成功させた初代神谷伝兵衛は、北海道の馬鈴薯を原料としてアルコールを造るためにドイツから技師を招き、明治33年、旭川に合同酒精株式会社を設立、日本最初のアルコール工場をスタートさせた。しかし、大正12年の関東大震災で神谷酒造の浅草本社・工場は全焼。復興のために北海道の事業は処分することになった。時の札幌税務監督局長、北海道拓殖銀行頭取がその救済に動き、再建の担い手として野口商店に白羽の矢が立った。野口吉次郎は一族で株を持ち、経営を引き継ぐことにしたのである。

 昭和6年、流山で帝国清酒株式会社が発足した時、大株主だった野口喜一郎は、北海道の北の誉酒造株式会社社長のほか、合同酒精株式会社の社長も兼ねていた。

帝国清酒株式会社から東邦酒類株式会社へのあゆみ

 東邦酒類株式会社の広報誌『東邦社内報第21号』は、昭和6年、資本金25万円の帝国清酒株式会社を東京に創立してから25年目の昭和31年までの東邦酒類株式会社の歴史年表「わが社のあゆみ」と、座談会「東邦むかしばなし」を特集している。「わが社のあゆみ」を抜粋して紹介する。

昭和6年6月8日:帝国清酒株式会社を東京に創立、資本金25万円、社長堀越孝次郎氏。
昭和6年6月19日:設立登記完了。
昭和6年9月18日:満洲事変勃発
昭和6年12月:千葉県流山町の味淋遊休工場を賃借し、改築に着手。
昭和7年5月15日:五・一五事件
昭和7年7月20日:蒸留機組立完了、竣工式。創業をはじめる。(従業員30名)
昭和9年11月:50万円に増資。森英示氏社長に就任。この頃、無水アルコールの蒸留をはじめる。
昭和11年2月26日:二・二六事件
昭和11年11月25日:日独防共協定締結
昭和12年7月7日:(従業員40名) 日中戦争勃発
昭和13年10月:川越市内の清酒遊休工場を買収して川越工場とする。
昭和15年2月:本社、流山工場と分離し東京市麹町区有楽町1の2(現在の日比谷)に移転。
昭和15年9月27日:日・独・伊三国同盟調印
昭和15年10月:流山工場の賃借建物買収。流山工場の全面改築、増築を始める。
昭和16年:メル式蒸留機新設。
昭和16年8月22日:資本金70万円に増資。ボイラー増強3罐となる。(従業員98名)。第12期営業報告書(昭和15年3月から昭和16年8月まで)によると、戦時下、合成清酒の需要益々増大。設備の増強改善のため増資する。前期生産高に比し約80%の増産。
昭和16年10月18日:東条英機内閣成立
昭和16年12月8日:太平洋戦争勃発
昭和17年12月:本社、東京都京橋区木挽町4の4(現在の三原橋近辺)に移転。
昭和18年:私立帝国清酒青年学校開設。校長中口政吉氏。生徒数20名。清酒の累次にわたる大減産のため合成清酒の使命愈々増大する。
昭和19年11月:本社を流山に移転。社名を帝国酒精株式会社に変更。(12月18日に登記完了)
昭和20年:大空襲はじまる
昭和20年2月24日:夜、流山工場に爆弾一つ投下され、ガラス、スレートが吹っ飛ぶ。第19期営業報告書(昭和19年9月~昭和20年2月)によると、燃料用アルコールの増産のため、合成清酒の最小限度の生産割り当量を製造するの外は、当社の全力を挙げて燃料用アルコールの生産に邁進する。
昭和20年8月15日:終戦、日本降伏
昭和20年9月2日:ウィスキーの製造をはじめる。
昭和21年5月3日:(従業員132名)。 新憲法発布 。食料飢饉に対処するため在庫原料のうち食料に供せられた米、麦、芋等の主原料を自発的に配給食料用として供出する。このため数ケ月間、一部操業中止のやむなきにいたる。
昭和21年7月16日:従業員組合結成さる。

笹岡了一画伯が描いた昭和25年頃の東邦酒類株式会社の正門風景のイラスト(構内に原料のイモが山積されている。)
笹岡了一画伯が描いた昭和25年頃の東邦酒類株式会社の正門風景。構内に、原料のイモが山積されている。

昭和23年3月:森英示氏取締役辞任。
昭和23年7月13日:社名を東邦酒類株式会社に変更。
昭和23年10月7日:昭電疑獄事件で芦田内閣倒る。
昭和24年3月:資本金1千万円に増資。
昭和24年3月23日:取締役流山工場長橋本菊二氏死去。社葬執行さる。
昭和24年4月:籾谷知治氏社長に就任。第28期営業報告書(昭和24年3月から昭和24年8月まで)によると、製品の蔵出しは消費者の購買力の低下で甚だ不調。業界の重大な転機に直面し、品質向上のため遊休蒸留機の活用によるアルコール5割増産計画を樹て、自由競争に備える。発酵設備の増設を実施中。
昭和25年2月27日:関東農産興業株式会社を合併吸収。これにより資本金1千2百万円となる。(従業員165名)。
昭和26年11月:銘柄「颯爽」を「東菊」にかえる。第31期営業報告書(昭和26年4月から昭和27年3月)によると今期中特筆すべきは、合成清酒に米を原料とした香味液の添加を認められたことで、かねてこのことに備え、研究を続けてきており、新製品の製造に成功を収めた。これを機会に、従来の「颯爽」のマークを廃し、新マーク「東菊」で11月初旬より新発したところ、合成酒業界に画期的な好評をもって迎えられ、急速に販売の増大を来した。
昭和27年5月:資本金3千万円に増資。
昭和27年7月:資本金4千8百万円に増資。
昭和27年10月:日化第4型式蒸留機新設。
昭和28年9月:出荷規制はじまる。
昭和27年10月:資本金9千6百万円に増資。
昭和29年8月:資本金1億5千万円に増資。
昭和30年3月:「天晴二合びん」を発売。
昭和30年10月:「東菊正二合晩酌びん」を新発売。
昭和31年6月8日:創業25周年を迎える。
昭和31年10月:スーパー・アロスパス式蒸留機新設。5千万円増資、資本金2億円となる。(従業員246名)

東邦酒類昔ばなし

 東邦酒類株式会社の全貌を、戦後、初めて流山市民に知らせた月刊タウン誌『流山わがまち』の座談会「東邦酒類昔ばなし」は、昭和60年、流山わがまち代表の山本文男と、東畑秀雄(54才、解散時、東邦酒類の労組委員長)の司会で行われた。

「東邦酒類昔ばなし」に出席した人たち。(前列左から小島仁三郎、佐藤好平、木村久夫。後列左から東畑秀雄、中橋利一、滝口滝男、大橋美福。)の写真
「東邦酒類昔ばなし」に出席した人たち。前列左から=小島仁三郎、佐藤好平、木村久夫。後列左から=東畑秀雄、中橋利一、滝口滝男、大橋美福の各氏。

 出席した佐藤好平(74才、解散時・常務取締役)、中橋利一(78才、解散時・取締役営業部長)、滝口滝夫(75才、解散時、労務部次長)、大橋美福(79才、解散時・酒精班)、小島仁三郎(78才、解散時・蒸留班)、木村久夫(69才、解散時・作業班)は、日本で最初に無水アルコールの製造に成功した経緯を次のように語った。

日本最初の無水アルコール蒸留

司会:帝国清酒は無水アルコールを日本で最初に工業化しましたが、そのことについて話してください。
佐藤常務:無水アルコールを始めたのは昭和9年。普通のアルコールというのは95%前後のものです。小島さん、それでいいんですね。
小島:ええ。
佐藤:その頃、無水アルコールがなかったわけじゃない。学会では、95%までとったアルコールを製品にして、それをまた、他に持っていって、他の設備で理論的には99.8度の、ほとんど100%のアルコールが出来た。95%というのは、5%が水で、理論的に純アルコールが95%というのですね。99.8というと、ほとんどアルコールです。0.2%が水ですからね。
それは、理論的には分かっていたが、実際に、工場で大量生産的に製造してなかった。われわれのところは、製造の母体はアルコールなんです。それで、帝国清酒はどうしてもアルコール蒸留機が必要で、それを造ってくれたのは大株主の大阪の高橋鉄工所です。社長が出来物で、フランスまで出掛けて研究してくれた。その頃、世界で一番アルコールの進歩していたのはフランス。第1次大戦でフランスは、石油が出来ないから飛行機の燃料も戦車の重油も、代用燃料としてアルコールを製造した。
それで、無水アルコールというのが浮かび上がってきて、アルコールにしたものを、また別のところで無水アルコールにするということを省いて、連続式無水アルコール蒸留機、一つの蒸留機の中で99度8分までとれる設備を、私の方で試験的にやったわけです。
それが昭和9年11月。それで成功したので、政府がアルコールの生産を始めた。稲毛、山口県の防府に政府工場を造った。それと共に、民間でも味の素が三楽酒造を造って無水アルコールを取り出した。
司会:その時の蒸留マンが小島さんですね。
小島:アルコールというのは、95%より出ないですから、ドラミノールを入れて、強沸させて水分を上げて、それを別のタンクに水分だけ抜いて、それをまた還元して、循環して取っていたわけ。その時、いくらやっても、1週間以上かかったが、とれない。
佐藤:かえって、下がってきた。
小島:それで土井新次さん(注・高橋式の合成清酒の技術指導に派遣されて来ていた東大出の技師)が、上へあげた所をもう1回、水を入れて、ドラミノールを回転さしたらいいんじゃないかって、それをやったら99.8まで出るようになった。結局、1週間以上、寝ずに毎晩、毎晩。何しろ日本で初めてのことですから、えらい苦労したんです。
中橋:当時、無水アルコールを専売局へ納めたでしょう。
佐藤:納めたんですが、その前に陸軍の、立川航空隊の指定工場になった。
中橋:航空燃料ですね。
佐藤:ですから飲料の方と、一部は無水アルコールで、航空燃料と両方やったわけです。

「躍進」が合成清酒の第1号商品

司会:合成清酒として市場に出したのは何という銘柄ですか。
佐藤:最初は「躍進」。その頃は問屋が皆マーク持ってまして、「妙齢」とか、とにかく問屋のマーク貼って出すわけ。
中橋:へ印というんです。大橋さん、「躍進」って酒が出たのは昭和7年かどうか、分かります?
大橋:8年の暮れからです。
中橋:「躍進」はあまり出てなかったと思う。僕が入社した時はもう「颯爽」になっている。戦時中は、軍の指定工場になり軍用酒造ったんです。軍用酒に「躍進」って名前使ったんです。
佐藤:そうそう。一般消費者には回っていない。
中橋:満洲にどんどん出た。濃厚酒と言ってね、アルコールの度数の強いやつで、現地に持っていって水を割って飲む。

合成清酒は、高橋式から理研式へ

司会:合成酒の製法に、高橋式と理研式とありますが、どこがどのように違うのですか。
佐藤:学理的にいうと高橋式の方が純理論的ですね。要するに、米を使わないで酒を造る。ところが、理研式は、実用的に出来てまして酒粕を製造の過程にひたして、清酒の匂いをそれからとる。ある意味で邪道ですが、そっちの方が受けた。消費者はうまければいい。それで結局、高橋式は止めて、理研から文献をうけて理研式に転換しているのです。それで「颯爽」という名前になったわけです「躍進」から。
司会:帝国清酒の資本系統は三社で、初代の社長は堀越さんですね。
佐藤:堀越さんはメーカーではなく問屋さんで、名前だけです。実際に動いたのは野口さんと森さんのところの一族ですね。
中橋:理研式の製法で合成酒を造るようになってからが、本格的だと思うんです。
司会:理研式に移ったのはいつ頃ですか。
中橋:それは、中口さんが来た時分じゃないの。昭和9年ごろ。
佐藤:初代社長の堀越さんの次の、森英示社長の時です。
中橋:合同酒精株式会社の堀さんが専務だった。堀さんは、戦後、連続3期、参議院議員を18年間務めた。中口政吉さんが来てから香味液を使うようになった。(注・堀末治は、野口喜一郎と小樽中学の同級生で親友、秀才の誉れが高かった人。野口吉次郎に憧れて、野口商店に入社し、喜一郎と共に父・吉次郎の教えを受けた)
司会:中口政吉さんの話をしてください。
中橋:石川県の出身の方で、酒造りに明るい人です。こっちへ来る前は、札幌で「北の誉」の支配人をやって、店と蔵と両方見ていた。昭和9年、こちらへ来た時は40才ぐらいじゃないか。
佐藤:その頃、理研酒づくりに、香味液(合成酒に日本酒の香りをいれるもの)を使ったんだが、腐敗が起こったわけです。純合成酒ですと腐敗はしないが、理研式では、酒粕にひたしたり、米麹をほんのわずか造ってひたすので、酒が市場に出てから変化するんです。それで酒が大分返品されてくる。それで、これじゃいけない、どうしても本格的に清酒の経験のある人をということで、野口さんに話をして「北の誉」から当時の責任者だった中口さんを、こちらに常務として迎えて本格的な合成清酒の生産体制に入ったわけです。
司会:帝国清酒の創業者の中で、野口喜一郎はどんな方でしたか。
佐藤:北海道の「北の誉」の酒造家で、一歩時代を先取りする人だった。清酒業者でありながら新式の焼酎の時代に遅れないように、新式焼酎を造る合同酒精株式会社を造った。九州の大日本酒類醸造株式会社の森英示さんも、家業は清酒でしたが、やはり新式焼酎をやっていた。当時、新式焼酎の大手業者は、京都の宝焼酎、北海道の合同酒精、九州の大日本酒類醸造で天下を三分していた。昔からの日本伝来の焼酎は、家内工業的で、地元の造り酒屋さんが片手間に、単式の蒸留機で、米を使ったり、麦を使ったり、粟を使ったりして、いわゆる米とり焼酎、あるいは酒粕を使って粕とり焼酎を造った。これを旧式焼酎と言った。資本的に大きくやったのは、宝と合同と大日本酒類醸造で、こちらを新式焼酎と言った。
小島:佐藤さんが言った新式と旧式は、今の酒税法でいくと甲類と乙類になるでしょう。甲類が新式で、乙類というのは旧式、単式蒸留機です。
佐藤:そういったことで、「北の誉」の野口さんと、「大日本酒類醸造」の森さんの考え方が一致していた。それで、米を使わない理研酒が出来たというわけで、それじゃ自分たちもーつやろうじゃないか。同じ理研酒じゃつまらない。高橋偵造博士の高橋式がいい、と高橋式で始まったのが帝国清酒の始まりです。

戦中、戦後の思い出から

司会:橋本菊二工場長は、中口さんのずっと後ですか。
中橋:あの人も「北の誉」の札幌の蔵に来て時々勉強していた。根室の松岡酒造の杜氏をしていた。それでこっちへ引っ張られた。私が来た時、中口さんの下で工場長でした。
司会:橋本工場長という人は、えらい豪傑だったといいますが。
中橋:麻雀好きだった。麻雀に夢中になって家へ帰ってこない。それくらい麻雀が好きな人だった。流山に警察が出来た時に、初代の公安委員長になった。
司会:その頃、橋本さんは流山の町会議員の選挙なども牛耳ったということですが。
中橋:うん、それは牛耳ったというより、あの当時、流山の人口は7千人だからね。工場長は町の偉い人とは皆付き合いをしているわけ。僕ら町内の方々と野球をしていたので、町会議員にだれを立てるかなんて、橋本さんも入れて町の人と随分やったね。橋本さんも野球が好きで、僕らを応援してくれていたから。しかし、われわれの仲間からは、一人も町会議員には出さなかった。
司会:東邦の組合活動について話して下さい。
大橋:組合の創立は昭和23年頃だったですね。
滝口:組合長の初代は、山本辰太郎さん。当時の籾谷社長が、組合を作ったらどうかとおっしゃって、それで作った。
司会:ストライキの経験はなかったんですか。
司会:ありました。
中橋:順番でやるんです。業界の組合同士話合いをして、今度はお前のところがストライキをやれって。
大橋:昭和29年に、いっペんやったですな。
司会:組合にも、なかなか立派な指導者がいた。長沼さんとか、梶山さんとか、その後、滝口さん、弟の鈴男さんとか、そのあと、辻さんとか。
中橋:相対的に見て、東邦酒類は非常に家族的な、和やかな会社でしたよ。
司会:社員は定期採用していたんですか。
中橋:それはずっとあと。大学出を入れるようになってから。
佐藤:第二市場に上場した頃。資本金2億円。31年頃ですね。第二市場へ株式を上場しました。
司会:流山の若い人たちには、東邦に入ることが大きな目標だったでしょうね。
佐藤:その頃、流山の大きな企業は、万上みりんと東邦酒類の2社ぐらいしかなかったですからね。
滝口:戦時中は男ども兵隊にとられちゃうからね、私が一番思い出に残るのは、佐藤さんが召集うけて、その直後に中橋さんが行かれ工場には年寄りの坂入さんに、私と、本社の渡辺松次郎さん位で、事務所やっていた。現場だってどんどん行くから、女子のボイラーマンもいました。
小島:蒸留も夜、女がやった。
司会:その頃の生産高、どの位の石数だったのでしょう。
小島:1万石ですね。
中橋:それでも、全国の合成酒メーカーとしては五本の指に入ったかな。
佐藤:三楽、東洋醸造、大和醸造、東邦酒類、あと何だった。
司会:僕ら最盛期は五万石というのを耳にしてる。
佐藤:そんなにいってない。
中橋:三万石、最盛期でね。
佐藤 「東菊」(あづまぎく)は僕が名前をつけた。
中橋:それを売り出す方程式をこしらえたのも佐藤さんなんです。宣伝文句ですね。「灘の生一本プラス。」何でしたかね。
佐藤:「灘の生一本+近代製法=東菊。そういう手法で市場へ売り出したんです。キャッチフレーズです。宣伝方法は宣伝カーを使いまして、当時、選挙演説などで使われたもので、酒の宣伝に使った。PRの女の子を沢山乗せて、東京の盛り場で、集まった人たちに試飲させたわけです。浅草、上野で、宣伝カーの上でお燗をして飲んでもらった。
滝口:私の思い出に残っているのは、社名が帝国っていうのは戦後はよくないっていうんで、社名を変更することになった。東邦酒類というのは私が言い出して当選したのです。

台糖株式会社と提携へ

 昭和33年1月1日発行の「東邦社内報」は、籾谷知治社長の談話として台糖株式会社との提携成立を次のように報じている。

 「かねてアルコール事業に進出を企画されていた台糖)が、蒸留酒業界の名門と自他共に許すわが社に働きかけられ、その結果、従来わが社の大株主であった合同酒精ならびに日本酒類醸造との間に、その持株の譲渡しが円満に成立した。わが社としては、今後、台糖の強力なるバックアップのもとに社運の隆昌を図りたい。」

 同年1月24日、臨時株主総会が日本橋会館で開かれ、定款の一部を変更し新たに会長制を設け、新役員として次の諸氏が就任した。

 代表取締役会長・武智勝(台糖ファイザー会長、日本精糖工業会会長)、代表取締役社長・籾谷知治、常務取締役・佐藤好平、城島励三(野村証券取締役)、手束二郎(台糖株式会社神戸工場長)、取締役工場長兼労務部長・戸谷栄三郎、取締役製造部長・星野敏男、取締役・田中賎次(台糖株式会社常務取締役)、宮脇音次(台糖株式会社監査役)。監査役・瀬川美能留(野村証券株式会社副社長)益田克信(台糖株式会社副社長)。

 「東邦社内報」に掲載された御挨拶で、武智新会長は「台湾精糖株式会社は多年糖蜜から優秀なアルコールを製造しておりました。戦後、台糖株式会社として新発足以来、予て酒精業界への進出を熱望しており、仲介の方々の多大のご尽力もあり今回の縁組ができたわけであります」と述べている。手束常務は「実は私は体質上から一滴のお酒もいただけず、お酒を造る御仕事に関係するとは夢にも考えなかったことでした。縁は異なもので、今度皆様の御仲間入りをする事となりました。合成清酒業界で日本一の定評ある東菊につきましては、お酒を嗜まない私でもよく承知しております。お世話になって僅か1ケ月ですが、特に私の感銘したことは工場内に塵一つ見出し得ない迄に清潔整頓されていること。わけて従業員の皆様方の礼儀正しさは、台糖神戸工場すらも到底及びもつかぬ事とお見受けした次第。幸に東邦発展のための計画は着実に進められている。両者の経営者、従業員一体となって一致協力事に当たればいかなる難事業も成らざるは無しと確信します」と書いている。

 昭和35年7月1日、東邦社内報は、題字を「あづまぎく」と改題して、第39回定時株主総会で、籾谷知治が社長を辞任し、新社長に台糖の宮脇音次常務が就任したことを報じた。籾谷知治は辞任の挨拶で「現在、台糖との人事交流も完璧に近い域にあり、加うるに宮脇さんを迎えたことは、私としても後顧の憂いなく辞任できる」と述べた。

突然の解散宣告

 しかし、昭和36年、蒸留酒業界は、昭和35年10月、公定価格の撤廃は実現したが、新たに基準価格が設定され大巾にメーカー価格が引き下げられた。原料甘藷の値上がり、容器代の異常な高騰、労務費の増加、国鉄運賃の引き上げで、生産原価内容は悪化していった。清酒業界との激しい競争も始まった。同業者間の血みどろの戦いも繰り広げられ、業界は最悪の事態に突入しはじめた。そして、昭和39年12月、会社を「解散する」事態を招いたのである。

 東畑秀雄は当時、東邦酒類株式会社労組の委員長であった。

 年末一時金交渉も妥結し、ほっと一息ついていた12月15日、突然、本社に来て欲しいと連絡を受け、日本橋にあった本社の社長室に飛び込んだ。そこで手束社長から「わびても、わびても、わびきれないが、明年3月末をもって会社を三楽オーシャンに売り、会社を解散し従業員を全員解雇する」と、終戦宣言を言い渡された、と東畑は語る。

 解散時の役員は、取締役会長・宮脇音次、取締役社長・手束二郎、常務取締役・佐藤好平、城島励三(総務部長)、取締役・野村燐太郎(経理部長)、戸谷栄三郎(工場長)、中橋利一(販売部長)。

 全従業員に配布された手束社長のお詫びの手紙の要旨は次のようなものである。

 『私は、皆様方と職場を共にして既に約7年、業界不振の中、私なりの努力をして参りましたが、微力のため会社を今日の最悪事態にまで直面させたその責任は挙げて最高責任者としての私の一身にあります。
 親会社台糖と一体となって業績の挽回を期したが、口で言う程にその実現は容易なものでなく、台糖また急激な業績低下に見舞われ、そのために当社への資金援助は、新規事業資金は勿論、既に2億数千万円に達した資金援助も、今後は困難を予想されるまでに切迫している。
 私の最も心配することは万が一にも会社を潰し、皆様方に退職金も支払えぬことにでもなったら大変だということでした。情において忍び難いものがありますが、規定退職金に加えて、幾分でも増額支給が見込まれるこの際、工場閉鎖、従業員の原則的解雇を条件とする三楽の吸収合併を承諾することにした。
 従業員の全員引継ぎを絶対条件として各有力会社に合併の意向を糺したが、斜陽視される現在の蒸留酒業界には一顧だにされず、ただ一社、三楽だけが自社合理化の有利性から話合いに応じて参り、三楽申し出の条件により合併の調印をしたのであります。』

東畑秀雄は言う。「当時の東邦酒類は業界大手五社に入り、組合内でも勝れた労働運動の先輩に恵まれ、全国レベル、千葉県下の争議指導に参画するなど、縦横の活動をさせて頂いていた矢先のことでした。それからは、寝食を忘れて会社解散までの労使交渉、組合解散処理、全組合員の再就職活動に明け暮れた。幸いに周囲の暖かいご支援を得て、全員の再就職が決まった。」

東邦が流山に寄与したこと

 「東邦社内報」(昭和32年5月10日発行)は社内ニュースで、本年度新規採用者、大学卒4名、高校卒7名は教育期間を終了し各職場に配置されたと、次の11名を紹介している。

大学卒業者:木下誠、丸山正人(販売部販売第二課)、宍倉敏夫(経理部主計課)、森淳太郎(資材課)
高校卒業生:青野直、植村克夫(製造第三課壜詰班)、村田稔夫(工務課汽罐班)、木村真子(資材課)、松田明子(製造部)、上原庸子(製造部研究室)、中西きよ子(経理部主計課)

 青野直(茨城県稲敷郡河内町出身)は、津田沼の千葉工業高校機械科を出て入社。昭和32年3月20日、18才で流山の独身寮に入った。

 青野は語る。「職場は、最初は壜詰工場の機械の点検係です。それから原動工作課に配属になって、工場内のいろいろな機械関係、ボイラー、配管の修理、修繕。流山電鉄から入って来るボイラーの重油の入れ替えなど担当していた。昭和37年12月に結婚して、子どもが39年4月2日に生まれました。子どもが誕生の年に会社が解散となったんです。家内とは職場結婚で、社宅に入ってましたから、二人とも職場も家も失ったんです。子どもがいましたので、家内は仕事は辞めて育児に専念。私は40年6月から流山町役場に採用してもらった。東邦から町役場へ13人がお世話になっています。
 私は、当時26才。青野君はまだ若いんだから、工場長が面倒をみるから最後まで仕事をまっとうしろと、214人の履歴書を持って市内の駒木製作所、キッコーマンだとか、柏市役所、松戸市役所、船橋市役所など、会社の幹部と組合の幹部が渡りを付けて来た所へ、私が希望を募って履歴書を持って歩いたんです。工場長はいまの三楽に残れということだったんですが、私は民間企業は止めて、流山町長の面接を受けました。
 「青野君、いくら給料もらっていたんだ。」と、田中芳夫町長にきかれた。2万6千円もらっていたと答える。「2万6千円じゃとてもじゃないけど、町役場では出せない。今あなたの年齢と経験を7割ぐらい加算をしても1万6千円ぐらいの人がいるんだから、その程度で良ければ明日から来て下さい。」で、1万円下がった月給で町役場にお世話になった。」

昭和60年4月12日、流山商工会館で開かれた「あれから二十年」第2回東邦会での乾杯の写真
乾杯。昭和60年4月12日、流山商工会館で開かれた「あれから二十年」第2回東邦会にて。

 記者が帝国清酒株式会社の存在を知ったのは、月刊タウン誌『流山わがまち』を昭和54年に創刊。「きき書き・流山現代史」の取材で、辻長司流山市議会議長にインタビューした時。辻は石川県能登の出身で、「能登では、資産のあるなしにかかわらず、長男であろうが、次男であろうが、世間の刺のある米を食べなければ一人前の男になれないといわれた。私の家は海産問屋。私は長男でしたが、一旦修行して来いと、昭和10年、17才の時、流山の帝国清酒に出された。中口常務の奥さんとうちの親父がいとこで、倅をオレの会社へ寄越せとなったのです」と、辻は語ったもの。

 辻長司の帝国清酒での最初の職場は試験室だった。出荷した合成清酒が火落ち菌が繁殖してダメになる。それが、向こうの落ち度なのか、最初から火落ち菌があったのか、それを試験するという仕事だった。辻は、東邦酒類株式会社の労組の書記長から委員長になる。昭和31年、労組委員長として活躍している時、労働団体生産性視察団の一員に選ばれ渡米している。

 平成18年3月10日、第3回東邦会に出席した87才の辻老を自宅に訪ねて、東邦酒類が流山に寄与したことは何だったのか、聞いてみた。

 「まず、役に立つ人材を育てたことですね。会社解散後、大勢の方が流山の役所に採用されましたが、皆さんそれぞれ活躍されて幹部職員になられた。それと、当時、経済的に大いに町の財政に寄与したことですね。戦後の混乱期。インフレにつぐインフレ。当時、源泉徴収やってないので、大勢の従業員が税金を滞納した時があります。2年、3年、4年と重なると馬鹿にならない。収められないので、みんな組合の私のところに持ってくる。それで、地方税の貯蓄組合を作った。その頃の町の財源は、万上と東邦の法人税と、従業員の町民税、収入面の6割ぐらいは二つの会社が占めていたと思います。」

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