昭和の産業史その4

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ページ番号1013082  更新日 平成29年9月15日 印刷

ファンケル化粧品。生まれは、流山です。

ファンケル美容研究所

 地場産業。「無添加のファンケル化粧品」を流山っ子は誇りとしている。「無添加化粧品。生まれは、流山です。」というカラー広告が月刊タウン誌『流山わがまち』に掲載され、市民の注目を集めたのは昭和62年7月。

 『流山市十太夫に当社の工場はあります。緑がいっぱいな自然の中で、香料や色素、防腐剤、酸化防止剤など一切使用していない化粧品を生み出しています。小さな容器に少量ずつ完全密閉されていて、ちゃんと製造年月日も明記されています。もちろん、弱酸性。肌のタイプや年齢も問いません。洗顔、化粧液、乳液のシンプルスキンケア。ぜひ一度お試し下さい。』というキャッチコピーが目を引いた。

池森政治氏の写真

 「ファンケル化粧品」の看板をかけた工場で、記者が池森政治(まさはる)専務に、会ったのは昭和62年5月。千葉工業大学電子工学科を卒業。ステレオ、ラジカセ等の設計エンジニアとして活躍していた彼が、流山の十太夫の工場で、畑違いの化粧品の品質改良や、新製品の研究に取り組んでいた時であった。初対面の記者に池森専務は次のように語った。

 「私の兄の賢二が昭和54年に化粧品の販売会社を創りましたが、委託していた製造会社の製品にバラツキが多くて、お客様に迷惑をかけているので、助けてくれないかと、1年がかりで口説かれたんです。化粧品の製造って経験ないんだけど、出来るのかなって云うと、電気も化粧品も物づくりは同じだという論理でした。」

電子回路の設計家

 池森政治は、昭和37年4月、千葉工業大学電子工学科(津田沼)に入学した。入学金10万円は一番上の兄、進に借りた。卒業論文は、トランジスターでの高周波増幅器制作。その頃、真空管からトランジスターへの移行期で、ゲルマニウムがメインで、周波数特性の優れたシリコンは生まれたばかりで、通常手に入らなかった時代。教授たちの前で発表するのだが、持ち時間ぴったりに終わり、昭和41年3月、無事卒業した。

 最初に入った会社は、ステレオ、ラジカセ、レコードプレーヤー等の設計、製造をして主に輸出をしていた。入社して驚いたのは、技術開発の人は全員辞めた後でだれもいない。今造っている製品の調子が悪いので設計変更してくれと言われた。設計図を見て徹夜で検討し、短時間で何とか売れる製品にした。

 2年後、輸出業務で付き合いのあった千代田商工に呼ばれ転職。3年ほどすると、シャープブランドのラジカセや輸出製品の設計製造をしていた小島電子工業から是非来てくれないかと誘いがあって、千代田商工は顧問ということで、また転職する。転職とは言っても仕事内容は同じだ。

 「新婚間もない頃でしたが、夜10時頃、妻にこれから帰ると電話しておきながら、設計の仕事に没頭してそのまま徹夜して家に帰らないことなどしょっちゅうでした。社員は一生懸命働いたのに、3年後の昭和51年に倒産したんです。部下の就職の世話をしていると、貴方がうちに来てくれるなら、他に何人か受け入れてもよいという会社が現れた。パイオニアの初代社長・松本望の個人会社、ボディソニックでした」と池森。

 仕事は同じく電子回路の設計である。松本会長に可愛がられ家庭にも遊びに行き、会社経営のコツを教わった。

不動産業から化粧品へ

 その頃、福島にいる義理の弟(妻の妹の夫)から、福島で不動産屋を一緒にやらないかと誘いがあった。彼は1級建築士で、池森は宅地建物取引主任の資格を取っていた。その不動産屋で土地付き建物を売るという考え。貴方なら何をやっても食べていけるから、ついて行きますという妻の一言で、池森政治は福島県保原町で不動産業を営むことにした。昭和54年、38歳の時である。

 「初めて土地が売れた時は飛び上がらんばかりに嬉しかった。これで家族を食べさせていける。お客様が帰った後、頬っぺたをつねってみました。」と池森は往時を回想してくれた。

 土地の売買や仲介業の仕事が順調にすべりだし、口こみで自然に仕事が舞い込むようになった頃、賢二から化粧品の製造がうまく行かないので、来てくれないかという話が舞い込んだ。

 長兄の進は語る。「賢二は政治を、化粧品製造の仕事に呼ぶ前に、私と上野の喫茶店で話し合いをしてます。『政治を俺はちょっと使いたいけど、兄貴いいかな』と、『賢ちゃんに、これはもう絶対に行けるという自信があるんだったらね。政治は今、福島で苦労している。軌道に乗り始めたところだけど、これからも苦労するんだったら、まだ若いし、いいんじゃない。』と賛成したんです。」

無添加化粧品に挑戦

 昭和59年1月、池森政治は、ファンケル化粧品の製造元、株式会社ファンケル美容研究所に代表取締役専務として入社。まず、製品が何故不安定なのか分析し、機械を百パーセント上手に使っていないことを突き止めた。

 「私は、化粧品の製造に関して化学の知識が30%、残りの70%は物理的な問題だと考え、製造機械の能力を120%生かすことにしたんです。」

 「肌に栄養を与える化粧品の主成分は、大変腐敗しやすい。そのため防腐剤、酸化防止剤、殺菌剤など石油から合成した化学物質を添加する。これが皮膚トラブルの原因。当初、兄が皮膚生理を追求、無添加基礎化粧品に辿り着いた。防腐剤が入ってないので、作りたてをお届けし、化粧品では例を見ない『製造年月日』と『フレッシュ期間』を明記して、注射液用の5ミリリットル入りのパイアル瓶に約1週間分を密封しました。」と、池森政治は語った。

 発足当初は、15人の女性パートさんと男性は池森一人だったが、昭和60年から、毎月1万人も無添加化粧品の愛用者が増えたので、工場を建て増し、従業員も若い男性社員15名、パートさん30名になった。社名も、株式会社ファンケル美容研究所から株式会社ファンケル美研と改称し、池森政治が社長に就任した。

萱葺きの古びた納屋の隣に建っていた株式会社ファンケル美研。ここで無添加のファンケル化粧品が生まれた。昭和62年撮影の写真

 平成3年6月、株式会社ファンケル美研は新工場を、流山市西深井、利根運河の江戸川口にある流山工業団地内に建設、移転した。

 「十太夫にあった旧工場の15倍の3千坪。移転直前、あの狭い旧工場での売上げは定価換算で百億円でした」と、池森政治社長は語った。

 化粧品業界に一大旋風を巻き起こした株式会社ファンケルが、ファンケルグループ数社を擁する大企業に成長したのは、創業者の池森賢二に弟の政治が参画して、無二の片腕となり、ファンケルの製造部門を活性化したからである。

ファンケル効果

 平成17年10月19日、横浜市中区にある巨大な本社ビルで、池森賢二名誉会長にインタビューした。24万円の元手で大手メーカーが支配する化粧品業界に不退転の決意で挑戦した創業時のことを伺った。

池森賢二が竹山団地に配布したA4版の「素肌美ニュース」の写真

 化粧品公害から女性たちを開放しようという池森のアイデアいっぱいの「素肌美ニュース」を2万枚印刷、横浜市緑区の竹山団地に一人で手配りして事務所に帰る途中、公衆電話から連絡を入れた。電話番をしてくれていた洋品店主から、「お客様から注文が入ってるわよ」という思いがけない朗報を聞かされた。池森賢二は、このときの感動を一生涯忘れることはないという。そしてこの日、昭和55年4月7日を「創業の日」と定めたと言う。

 「ファンケルという商標は、付加価値の高い精製化学薬品、ファインケミカルのイメージを出すために、ファンケルとしたんです。私の造語です。英語でFANCLは、ファンクルと読まれる。これをファンケルと読ませるので、外国人は非常に苦労するんですが、返って一発で覚えてもらえ、売上げがものすごく伸びた。」

 平成13年6月。神奈川新聞社から、ベンチャー・ドキュメント『ファンケルあくなき挑戦』が発行された。これは同社の谷津孝一記者が、平成12年5月19日から10月7日まで、40回にわたり神奈川新聞に連載した「ベンチャー列伝・ファンケル」を、一冊の本に編集したもの。

 化粧品業界に新風を巻き起こした株式会社ファンケル(本社・横浜市)は、健康食品業界にも進出して、またたく間にそのトップメーカーに躍進する。そして、平成10年11月12日、株式を店頭公開。平成11年12月7日には、早くも東京証券取引所の一部に上場される。ファンケルグループの池森賢二代表は、『ファンケルあくなき挑戦』の「本書に寄せて」に次のように書いている。

池森賢二氏の写真

 「株式を店頭公開した時は、日経平均株価がバブル崩壊後の最安値をつけた直後でした。株式市場への資金流入が極端に縮小していたうえに、その数日前、NTTドコモが上場して市場から2兆円という資金を吸収し、最悪の状態だと云われていました。従って、公開当日は初値がつくかどうかで気をもみましたが、4,700円の公募価格を上回る5,510円の初値がつき、その後、連日ストップ高となって私を含め関係者をホットさせました。
 これが一つのきっかけで株式市場全体が立ち直り、ある証券会社の社長から『われわれはファンケル効果と言っているんですよ。本当にありがとうございます』と言われ、当時の株式市場立ち直りに弊社の株式公開が大きく貢献したのであれば、この上ない幸せだと思いました。」

一時にせよ、東京証券取引所の救世主になれたことは、すごい話である。

池森家の男兄弟たち

 ここで、池森兄弟のことに触れておく。

 株式会社ファンケルの池森賢二、池森政治兄弟は、三重県宇治山田市にほど近い田丸の農家出の池森由蔵(よしぞう)とミセ夫妻の次男、三男である。

 由蔵の長男、進(すすむ)は、平成16年12月、朝日新聞社から『丘を越えて』という本を上梓した。小学校4年で父を失った進が、幼い兄弟たちと懸命に、母を助けて逆境を切り拓いた「自分史」であるが、内容を読んだ朝日の出版局は、個人出版ではもったいないと、平成16年12月16日、書店のルートに流してくれたものである。

 本の緑色の帯に、株式会社ファンケル取締役会長の池森賢二の次のような推薦の言葉が印刷してあった。

 「疎開先での父の事故死、雪深い新潟での苦しい生活。しかし、逆境にこそチャンスがあります。兄はクリーニング業で成功し、私は株式会社ファンケルを興し、東証第一部上場企業にまですることが出来ました。本書は私達の奮闘の記録を兄が綴ったものです。若い人達にもぜひ、読んでほしいと思います。」

 平成17年11月28日。東京都江東区でクリーニング業・トーアクリートを営む、長兄、池森進に会って弟たちの話を聞いた。

 「父が死んだのは昭和21年。一番父親に似ているのは私なんですよ。顔も性格も。非常におとなしくて、派手に物事やるのが嫌いで、人の前に出るのも好きじゃなかった。弟の賢二は、逆にね、人の前に出るのが好きで、しゃべることが大好きなんです。三男の政治は、ちょうど中間ですね。池森家というのは、横にそれたりすることが出来ないんです。ただ真っ直ぐ前を向いて進むという感じで、要領よく立ち回るということは出来ないほうなんです。母と子、私達兄弟5人は、強い絆で結ばれて苦しい人生を乗り越え、道を切り拓いて来た。」

 「賢二は、商人としての実力はありますけどね、それは、きちんとしたいい製品を造ってくれる人間が居なかったら何も出来ない。安心して任せられるってのは身内ですよね。ファンケルは、弟が兄貴に協力して、一生懸命良い製品を造って、それを兄貴が販売する。二人三脚で大きくなったのは確かだと思います。私の会社を退職した末弟の行夫は、ファンケルに入社して、現在は、お客様からの受注及び出荷業務を管理統括する部門を担当しています。」

 「政治は昨年4月から、株式会社ファンケル美健の取締役会長として、ファンケルの製造部門を統括する傍ら、地震等のリスク対策として滋賀県日野町に3万坪の第2工場を一昨年建立、現在その立ち上げに取り組んでいる。賢二は、株式会社ファンケルの名誉会長として、人の人生で考えられる最高の地位を獲得しました。自分が無一物から起こした会社が東証第一部市場に上場され、しかも年商8百億を超える優良企業になったのです。」

 株式会社ファンケルは現在、株式会社ファンケル美健(化粧品・健康食品の製造)、株式会社ファンケル発芽玄米、株式会社アテニア(高品質で低価格の高級化粧品の企画・販売)、株式会社ファンケルアジア(輸出業務)、株式会社いいもの王国(一般商品の通販)の5社を傘下に置いている。そして、株式会社ファンケルが、グループ企業の経営企画、販売戦略、商品企画、受注出荷業務を管理、統括している。

 ファンケルの取材で記者が心を打たれたのは、池森兄弟の母想い、家族愛の強さであった。

長兄池森進氏の写真

 長兄、池森進は『丘を越えて』の中で次のように書いている。

 『妹の美鈴が中学を卒業する日がやってきた。私は母と話し合い、美鈴を家政学院高校に入れることにした。そして私と一緒に住まわせることにした。兄弟想いの美鈴は積極的に店を手伝ってくれていたので私も嬉しかった。
 三男の政治は、コツコツと努力するタイプだった。私も兄弟で一人位は大学へ行ってほしいと思っていたので政治に期待した。彼は期待通り千葉工業大学に合格した。しかし入学金10万円の捻出に困っていた。政治は大学へ入ったら学費はバイトをやって稼ぐので入学金を貸して欲しいと言って来た。弟が大学へ入ってくれれば私も鼻が高い。妻も賛成してくれた。入学金が捻出出来たのも私が独立商売していたからだ。
 賢二は、その頃ロート製薬の素人のど自慢の番組に出場して優勝し、何回もカップや賞金を得ていた。そして夜にはバンド演奏などのバイトをして稼いでいた。そして私の店に来て販売を手伝ったりしていた。夏休みになると、政治もやって来た。私達兄弟の中で一番何でも積極的だったのは賢二だった。何にでも興味を持ち挑戦する。朝日製菓時代も、仕事に追われる毎日を送りながらも柔道に挑戦し、苦しくとも途中で挫折せず頑張り通し、遂に講道館初段に到達した。』

 池森兄弟は、毎年1回母と共に家族旅行を楽しんでいるという。株式会社ファンケル美健の池森政治会長によると、昭和58年、犬吠崎へ母と兄弟5人で行った旅行が始まりで、それぞれの連れ合いも一緒に、伊香保、伊豆、函館・札幌、八丈島、松島、三重、福島等々、総勢11名で家族旅行を楽しんでいる。平成17年6月にはバスをチャーターして浜松の花博を見学した。

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