新選組と流山

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ページ番号1013074  更新日 平成30年7月4日 印刷

新選組流山へ

 慶応4年(1868年)4月2日大久保大和と名乗る近藤勇を隊長とした幕府公認の治安隊(実態は新選組の生残り)が流山に駐留してきた。

 この流山駐留について、従来の研究では、会津入りを果すための中継地点として、約2週間ほどの駐留が行われたものと考えられてきた。しかし、昭和50年に足立区西綾瀬(当時の五兵衛新田)の金子家から、慶応4年3月から4月にかけての動向を示す貴重な文書が発見され、歴史の空白を埋めることになった。

 金子家史料によれば、慶応4年3月6日に甲州勝沼で板垣退助の率いる官軍に敗れた甲陽鎮撫隊150名は江戸に敗走。13日夜には浅草から五兵衛新田の金子家へ入った。この夜、大久保大和を先頭に48名、2日後には約50名の第2陣が内藤隼人(土方歳三)に率いられて金子家に入った。

 これ以降、4月1日まで隊士の徴募を行った後、4月2日未明から午前中にかけ、総勢200余名が流山へ移動したのである。流山での駐留は、本隊が酒造家長岡屋へ、分隊は光明院、流山寺等に宿をとったとみられている。翌3日、流山に賊徒が屯集しているとの情報を得た新政府軍の先峰隊(香川敬三隊)は流山を包囲した。
しかし戦闘体制が整っていなかったため、大久保大和は総督府へ出頭して幕府公認の治安隊を主張したが、近藤勇であることが露見。捕らえられて4月25日、板橋宿で処刑された。

 一方、流山に残っていた隊士たちは4月6日会津へ移動を始めるが、奥州道中などの主要路は、既に新政府軍が押さえていたため、布佐(我孫子市)から利根川を船で下り、銚子から船を乗り換え、潮来から陸路で水戸街道へ抜けるという、つらい移動であった。

関係略年表
元号月日 主なできごと
元治元6月5日 池田屋事件
慶応4年(1868年)1月3日 鳥羽伏見戦争始まる
慶応4年(1868年)1月15日 富士山丸で85名品川へ上陸
慶応4年(1868年)1月23日 江戸城内へ移駐
慶応4年(1868年)2月15日 前将軍慶喜の警護に加わる(25日まで)
慶応4年(1868年)2月28日 甲州へ出兵命令を受ける
慶応4年(1868年)3月1日 甲陽鎮撫隊江戸を出発
慶応4年(1868年)3月6日 勝沼で官軍と交戦し敗走
慶応4年(1868年)3月13日 新選組分裂し近藤らは五兵衛新田へ駐留(4月1日まで)
慶応4年(1868年)4月1日 新選組、五兵衛新田を退去し流山へ向う
慶応4年(1868年)4月2日 流山へ準入した新撰組2百余名は「味噌屋」と「光明院」等へ駐屯
慶応4年(1868年)4月3日 香川隊、流山を包囲、近藤勇出頭する
慶応4年(1868年)4月6日 流山残留の隊士は、銚子へ出発、後、茨城(平潟)より会津へ入る
慶応4年(1868年)4月12日 土方歳三国府台の大鳥圭介の軍に参加
慶応4年(1868年)4月25日 近藤勇、板橋宿にて斬首(35歳)
明治2年5月11日 新撰組土方歳三、函館にて戦死(35歳)

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