ぐるっと流山 講演会「一茶回顧」

ページ番号13558 更新日 平成24年11月5日

秋元大吉郎氏講演会「一茶回顧」

講師の秋元さん

 文化の日の11月3日、一茶双樹記念館で講演会「一茶回顧」が行われました。約2週間にわたり開催されていた第8回「小林一茶まつり」の一環として、一茶双樹記念館の指定管路者・株式会社グリーンダイナミクスと流山歴史文化研究会(渡邊義正会長)の共催によるものです。講師には、元流山市長で俳人の秋元大吉郎さんをお迎えしました。


会場は満席に

 当日は、定員50人のところ約70人の入場者があり急遽、椅子や座布団を追加。会場の双樹亭は、秋元さんの語る一茶像を心待ちにした入場者で一杯になりました。双樹亭には、「一茶双樹俳句交流大会」に投句された一般・中学生・小学生の部、合わせて1,902句がずらりと展示され、一茶や一茶を支援した流山の醸造家・五代目秋元三左衛門(俳号:双樹)の歴史的功績により、俳句に親しむ市民が多いことをうかがわせます。


会場には市民の俳句が展示され

 小林一茶は、長野県信濃町の出身で、流山には双樹を頼り54回も訪れ136泊したといわれています。二人は後世に伝わる多くの作品を残されており、二人の関係が縁で、流山市と信濃町は平成9年に姉妹都市の絆を結んでいます。講演会では、講師の秋元さんが、二人が活躍した時代の江戸幕府の治世から話を起こされました。


熱弁をふるう秋元さん

 自由経済で闊達だった老中・田沼意次の時代に、一茶は江戸に奉公に出て俳句をたしなみ天明7年(1787年)、25歳の時に葛飾派三世・溝口素丸の執筆となり俳句の世界でも知られる存在となります。時代が、田沼から松平定信の寛政の改革に移った寛政3年(1791年)、一茶は14年ぶりに帰郷し翌年から6年にも及ぶ西国行脚の旅にでます。


持論を紹介

 秋元さんは、この一茶の旅を松平定信が行った政策によるものではなかったかという持論を紹介しました。江戸に人口が集まりすぎたこの時代、仕事もなく江戸にいる地方出身者を故郷に返す政策でしたが、一茶もこれに該当したのではないか。時代背景を考察しながら、一茶の行動を解釈する面白さに詰め掛けた皆さんは、メモを取りながら聴き入っていました。


熱心に聞き入る参加者

 一茶が流山を度々訪れ、双樹と交流を持ったのは1800年代初頭の文化の時代。二人の交流は約10年続きました。一茶は、一度訪れると2泊か3泊していきましたが、「もう少し」と惜しまれるころに去るのが一茶の心得であったといいます。10年にも及ぶ交流は、二人の向学心とうんちくを語り合った楽しさではなかったか。古き時代に、俳句が結んだ二人の蜜月の時に思いを馳せながら、秋元さんは語ります。


一茶と双樹を語る秋元さん

 1時間30分の講演を秋元さんは、「いつの世までも伝え残されるであろう、小林一茶という偉大な俳人の足跡を流山に残したのは、紛れもなく秋元双樹の功績であり、私たち流山市民は双樹を誇りに思い顕彰していかなければならない」と締めくくりました。


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