ぐるっと流山 森の学校 第20回記念講演会「流山の古墳文化のはじまりとおわり」

ページ番号12893 更新日 平成24年10月4日

森の学校 第20回記念講演会「流山の古墳文化のはじまりとおわり」

講演会「流山の古墳文化のはじまりとおわり」

9月29日(土曜日)、森の図書館で第20回森の学校「流山の古墳文化のはじまりとおわり」が開催され、流山市内はもとより松戸や市川からも合計65人の考古学ファンが訪れました。講師は、博物館主任学芸員の増崎勝仁さん。増崎さんは第1回目森の学校開校時の講師でもあり、「流山にある古墳の歴史」「そもそも古墳とは何のために造られたか」「古墳文化がどのように流山へ伝わったのか」を年表や図解、現地調査のスライドを使って分かりやすく説明してくれました。


たくさんの方が参加しました

流山の古墳は三世紀後半から七世紀に造られたそうです。全国的に見ても古墳の多くは交通の要所や地域の要となる場所に存在し、遠くからでもはっきりと見える場所に築かれているそうです。「古墳は見せるためにある。農民たちが低地で農作業をし、見上げると王さまの墓が見える。それは『ここは私の支配地だよ。』と農民たちに示したもの。」というお話にはなるほどとうなずかされました。増崎さんの研究では、前方後円墳は大和朝廷の特徴で、大和朝廷の領土拡大の進出経路が東京湾から河川などを経て、最終的に手賀沼水系をたどりつつ周辺地域に集落を広めてきた結果、古墳文化が流山方面に伝わって来たと考えられるそうです。


流山の古墳

東深井古墳にも小規模ながら前方後円墳があり、13基ある古墳からは、年代別に円筒型や武人や女性の埴輪、馬・魚・鶏等をかたどった埴輪も出土しました。現在は市の博物館にも展示中です。 また、東深井古墳群と隣接する柏市には円墳4基で構成される八幡山古墳群が存在し、広域な古墳群が形成していたと考えられるそうです。
 
 


講師の話に聞き入る皆さん

その後の質疑応答でも盛んに皆さんからの質問が出され、仮説として古墳は大和朝廷の地方への影響伝播の戦略として使われ、スーパー業界の出店例(儲からなくなったら撤退して新たな道を見つけ開発していく)と同じである等、面白いお話も聞けました。近年の調査で、手賀沼北岸周辺から柏、流山へ至る古墳文化の伝来経路についての研究成果をまとめ、来年1月には流山市立博物館での企画展での展示も計画されているそうです。


流山の古墳

参加された皆さんからは、「古代の人々の精神や生活に触れることができてためになりました。」「流山に沢山古墳があることに驚いた」などの感想が聞かれました。


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