ぐるっと流山 語り継ぐ平和への想い「惜別の歌」

ページ番号6771 更新日 平成22年5月17日

悲しむなかれ我が友よ・・・  「惜別の歌」の作曲秘話と男声合唱

白門グリークラブの合唱

  5月16日(日曜日)、文化会館で終戦65周年記念・語り継ぐ平和への想い「惜別の歌」が開催され約750人が来場されました。公民館のゆうゆう大学一般公開授業として行われたもので、「惜別の歌」(作詞・島崎藤村)の作曲家・藤江英輔による公演と、「白門グリークラブ」による演奏会の2部構成。白門グリークラブとは、中央大学グリークラブのOBで構成する男声合唱団で、中央大学は藤江さんの出身校でもあります。


講演する藤江さん

 「遠き別れにたえかねて この高楼にのぼるかな 悲しむなかれ我が友よ 旅の衣をととのえよ・・・」中央大学の学生歌で、歌手・小林旭が歌って全国に広まった「惜別の歌」。前半の藤江さんの講演会では、この曲ができた背景や当時のエピソードをとおして平和の尊さを考える内容でした。藤江さんがこの歌を作曲したのは、中央大学在学中の太平洋戦争末期で、学徒勤労動員により板橋の陸軍造兵廠で学問とは全く関係のない生活を送られていたときとのこと。


満席の会場

 当時、工場で学徒出陣の赤紙を学生たちに手渡す係をされていたという藤江さんは、大変悲しい想いで友を何人も見送ったそうです。そんなときに、島崎藤村のこの詩に出会い、趣味としていたヴァイオリンで曲を付け、工場内で口づさんでいたのが広まり、勤労動員された学生同僚が送り出す時のお別れの合唱歌になっていたそうです。また、1番3節の「悲しむなかれ我が友よ」は、島崎藤村の原詩では「我が姉よ」となっていたものを、藤江さんが直して歌っていたというエピソードも披露されました。


ご家族も壇上に上がり合唱

 惜別の歌は戦後、中央大学の学生歌となり、当時流行っていた歌声喫茶で全国に広まり、小林旭が歌って大ヒットして今に歌い継がれています。しかし、この歌ができたころは、「惜別」は単なる別れの名残り惜しさではなく、いま別れれば再びこの世では会うことがかなわぬという永遠の別れの情をこめての惜別であったと思うと、いたたまれない気持ちになります。藤江さんは最後に、霞が関近くの料亭で、予科練に来ていた学生の書いた寄書にあった1句を紹介し、覚悟を決めた強い思いに感動した話をされ、平和の大切さを訴えました。


見事なハーモニーを

 後半は、白門グリークラブの男声合唱を楽しみました。この日は25人のメンバーが、「惜別の歌」を始め名曲の数々を披露してくださいました。同クラブは、昭和35年に創団し今年50周年を迎えます。メンバーの結婚式でグリークラブのOBが集まって歌ったのが結成のきっかけで、創団当時のメンバーも5人残っているとのこと。平均年齢はもうすぐ70歳になるという皆さんは、歌っていることが健康の秘訣と、今も週に1回集まって練習を重ねているそうです。


結成50周年の白門グリークラブ

 中央大学は箱根駅伝の常連校ということで滝廉太郎の「箱根八里」や、秋田県出身の作曲家・成田 為三の「浜辺の歌」、さらには海外の曲から、ワーグナーの「巡礼の合唱」、ミュージカルキャッツより「メモリー」などを、男性合唱ならではの力強さと美しいハーモニーで聴かせてくださいました。ラストソングは、藤江さんも舞台に戻って会場全体で「惜別の歌」を合唱しました。


JCNコアラ葛飾も取材に

 吉川市からいらっしゃった岩田圭司さん(66)は中央大学の出身者で、チラシを見て藤江さんの講演と同門の皆さんの歌声を聞きたいと参加されたそうです。「惜別の歌の作曲秘話は興味深く、当時の学生たちの想いが伝わるようでした。白門グリークラブの皆さんの活躍は、同年代の同窓生として誇りに思うし励みにもなります」と語ってくださいました。この日の様子は、地元ケーブルテレビのJCNコアラ葛飾でも取材され、18日(火曜日)のデイリーニュースで紹介される予定です。


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