昭和の産業史その5

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ページ番号1013083  更新日 平成29年9月15日

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流山の都市ガス事始め京和ガス株式会社の初代社長、海老原信二の人と業績

流山のガス灯

 東武野田線江戸川台駅の東口に降り立つと、大きな球形ガスホルダーが眼に飛び込んでくる。「青い炎で21世紀の街づくり」というキャッチフレーズを掲げ、天然ガスを低廉な価格で、安全確保に全力を尽くして市民に供給している京和ガス株式会社(海老原堯社長)のシンボル、1万立方メートルの球形ガスホルダーである。その球面の正面に大きく書かれた「京和ガス」と、その上にKEIWA GASの頭文字のKとGを、紅と青で象ったシンボルマークが、くっきり空に映えている。

京和ガス株式会社のシンボル球形ガスホルダーの写真
京和ガス株式会社のシンボル、1万立方メートルの球形ガスホルダーの前で記念写真(平成4年)

 48年前、江戸川台団地の第1次の入居が始まった昭和33年7月当時のガスタンクは、千葉県住宅協会江戸川台出張所の小型の1千立方メートルの球形ガスホルダーだった。

 「昭和の流山産業史」第5話は、昭和37年からプロパンに取り組み、市内ガス業者たちと行政を巻き込んで、「流山市内に都市ガスを」と誘致運動の先頭に立ち、京和ガス株式会社の初代社長に就任した海老原信二の産業立志伝である。

 日本の「ガスの記念日」は、10月31日である。明治5年10月31日、横浜の神奈川県庁に近い馬車道、本町通りに『ガス灯』が十数基ともされた。人々はその明るさに驚き、キリシタンの魔法だと噂したという。この横浜のガス灯が、日本の都市ガス事業の事始めと言われる。流山の都市ガス事始めは、昭和33年7月。江戸川台団地の第1期工事、千葉県東葛飾郡流山町江戸川台東1丁目と2丁目の335戸が完成して、入居が始まり、千葉県住宅協会江戸川台出張所のガス事業部が営業を開始した日である。

海老原信二社長(平成6年)の写真
海老原信二社長(平成6年)

 流山の「都市ガス」を記念して、京和ガス株式会社の初代社長・海老原信二は、流山市内6か所にガス灯を立てている。

 平成4年5月23日付け『ながれやま朝日』に、「江戸川台にガス灯公園」という見出しで、次の記事が掲載された。

 「江戸川台東1丁目の江戸川台東自治会館前に、モダンなガス灯のあるレンガ敷の小公園がお目見えした。この公園は、流山市の公園緑地課の造成で、シンボルのガス灯はすぐお隣りの京和ガス株式会社(海老原信二社長)が寄贈したもの。

流山のガス灯の写真
流山のガス灯

 ガス灯は、タイマーの付いた自動点火方式で、ガスの燃焼炎により、発光剤を浸透させた繊維で作られた円筒状のマントル3本を発光させる仕組みで、点灯時間は冬期(11月から4月まで)が午後5時から午後12時、夏季(5月から10月まで)が午後7時から午後12時。ガス灯が設置されたのは流山では9基目。これまで京和ガス株式会社本社前に2基、流山市役所前に2基、加の東急マンション前に2基、千葉興銀加台出張所前に1基、隣りの斉藤歯科医院前に1基ある。」

 流山市江戸川台東1丁目にある京和ガス株式会社本社の玄関の右手の大イチョウの先にハナミズキが植えてある。平成14年4月17日に植えられた『都市ガス3万戸達成記念樹』だ。

増田長之助先生の教え子

 京和ガス株式会社初代社長の海老原信二は、大正12年2月19日生まれ。寳一(たからいち)味噌醸造元で、漬物・肥料・米穀・燃料まで手広く扱っていた海老原繁吉の次男。

 流山の教育長になった増田長之助が、千葉師範を卒業して昭和8年、流山小学校に赴任して担当した5年生で、昭和10年に卒業。上野の泰東商業学校を出てからもずっと、何十年も増田先生のお宅へ元日の夜は級友4人とお邪魔していた。

 月刊タウン誌『流山わがまち』の昭和63年11月号に、流山のガス事業に深くかかわった海老原信二の昔語りが載っている。取材したのは記者である。

 「昭和15年、商業学校を卒業してすぐ親父の仕事を手伝いまして、味噌をつくったり、漬物をつくったり、燃料の販売をしました。味噌をつくるには、麹室に入って麹(こうじ)をつくるんですが、時間を見計らって配達にも出ました。とにかく二人前働きました。親父が自慢の働き者の息子だったんですよ。」

二十歳のころの海老原信二さん
海老原信二20歳、店の前で

 昭和19年4月15日、信二は川間の漬物屋、柳常八の姪、静子と結婚する。そして1ケ月後に兵隊検査に合格して、横須賀の武山海兵団入営する。

 「私が兵隊から帰ってすぐ、昭和22年に政府供出米を民間の業者も集荷できることになり、政府指定米穀集荷業の登録をとりまして、旧流山町の政府米の73%をうちで集荷したんです。私は検査官と一緒に歩いて等級を確認して、それを政府米として集荷して手数料をもらうわけです。木村、鰭ケ崎、西平井の米所を1年間歩きましたが、検査官と一緒に酒のもてなしをうけるのがいやで、私は酒も煙草もやりませんでしたから、親父に話して1年で辞めたんですが、農家の方から辞められては困るというので、また翌年から集荷業務を再開しましたが、今度は弟を出すようにしました。
 統制時代も燃料はうち1軒でして、配給中は、私が一人で、百円札の束を持って福島など東北地方の山の中へ入って薪炭組合から現金で直接仕入れ、輪送証明をもらって貨車で流山へ運びました。炭の入荷量が県内では千葉市に次いで流山が多かった年もあります。」

 「増田長之助先生のお宅に、ある夜伺っていた時、『海老原君。プロパンガスという非常に便利なものが出来たが、君のところは扱わないのか。』と先生。『うちの親父は古くて新しいことはやりたがらないので無理です。』と言って帰ってきた。昭和30年代前半のことです。ある時、新川の秋元佐一さんの精米所に行ったら、プロパンの勉強を盛んにしている。『お宅もやらないか。平和台にも団地が出来るし、これからはプロパンの時代だよ。』と佐一さんに言われ、私も父親には内緒でプロパンを勉強して資格を取りました。
 親父の頭には、ガスは東京ガスしかなくて、ガス事業は個人のやる仕事ではない。大資本がやるものだという考えがあって、プロパンの話も相手にしなかったんです。その頃、うちの商売は肥料が主力になってました。」

流山ガス株式会社は、平和ガス株式会社から京和ガス株式会社へ

 昭和37年、プロパンの資格を取った海老原信二は、流山市内でプロパンを扱っていた鈴木商店(鰭ケ崎駅前)、中沢商店(流山8丁目)、金子屋(流山7丁目)、井戸平商店(流山5丁目)、安田屋(流山1丁目)、有限会社スズキ(平和台)、有限会社佐藤商店(東深井)、遠藤商店(西深井)の8業者に声をかけ、流山ガス株式会社を設立。新県道沿いに流山ガスセンターを建て、ガス器具の販売を始めた。

 「親父に黙ってやったので、うんと怒られましたが、相談していたら反対に決まっているんです。昭和38年12月には、平和ガス株式会社を設立しました。設立の目的は都市ガスで、町を挙げてやってもらわなくては駄目なので、平和台を造成して平和不動産の誘致に努めた田中芳夫町長と、秋元鶴雄商工会長に話をして、藤原伊勢吉、海老原元二郎さん等の参加を求めてスタートしたんです。程なく職員の使い込みで危なくなった。その後始末ということで、秋元鶴雄さんから社長をバトンタッチしたんですが、再建には苦労しましたね。豊四季、駒木台、平方、鰭ケ崎、美田の5つの団地にガスを供給することが出来ました。」

 昭和46年、千葉県住宅協会は、江戸川台団地の都市ガス事業を民間に払い下げることになった。

京和ガス本社社屋の写真
江戸川台東の本社社屋

 「千葉県住宅協会は、江戸川台だけでなく、千葉市の大宮団地、小倉団地、八千代市の八千代団地のガス事業を民間に払い下げることになったので、江戸川台は地元に払い下げて下さいと、当時の川上理事長と友納知事にお願いしたのです。他の3つは隣接の東京ガスに払い下げになった。現在の千葉ガス株式会社です。江戸川台は東京ガスと隣接していないので、是非とも地元にやらせて下さいと友納知事に直接陳情した。知事は公営でやってはどうかという。田中町長にその旨報告し、じゃあやろうということになり、流山の議会にガス事業調査特別委員会を設けた。辻さんが委員長でした。積極的に取り組んでいた時、田中さんが自民党副総裁の川島正次郎さんのところで、通産大臣の椎名悦三郎さんに会った。『田中さん、ガス事業は大変ですよ。』と、水をかけられ、やる気を失って、結局、京葉ガスへ譲渡されてしまったんです。昭和46年、京葉ガス株式会社流山事業所(山岸所長)がスタートしましたが、田中さんの骨折りで、昭和47年2月に京葉ガス株式会社と地元流山の商工人と折半で、別会社をつくることになり、京和ガスが誕生したのです。」

 京和ガス株式会社は、資本金8千万円、海老原信二社長で、昭和47年2月1日に発足した。京葉ガス株式会社流山事業所から受け継いだ都市ガス事業、平和ガス株式会社より譲渡された6団地の簡易ガス事業に、L Pガス販売を加えて事業を開始した。

 「江戸川台団地の都市ガスは、当初、大多喜天然ガス会社、成田天然ガス会社からボンベに詰められた圧縮天然ガスが、大型トラックで運ばれてきた。」と、平成4年に江戸川台自治会が発行した『水道塔があった街・住宅団地江戸川台の30年』に記されている。

 京和ガス株式会社が発足した当時、昭和47年2月の顧客は江戸川台団地の入居者が大半で3千戸たらずだった。それが、33年後の平成17年度の需要家戸数は、35,874戸。ガス売上げ25億9千7百万円。資本金8千万円。従業員51名。京和ガス株式会社は流山の基幹産業に成長した。

ガス事業は保安の確保が一番大事

 海老原信二社長は、平成7年、水野宏社長にバトンを渡して会長に就任。平成15年7月27日、海老原信二は死去した。享年80歳であった。

天然ガス自動車の前で。左から水野宏会長、海老原堯社長 の写真
天然ガス自動車の前。左から水野宏会長、海老原堯社長

 平成15年11月11日、記者は、京和ガス株式会社本社で、水野宏会長、海老原堯(さとる)社長のお二人にインタビューした。水野会長は、京葉ガス株式会社から京和ガス株式会社に移ったガス事業40年のベテラン。京葉ガス株式会社に入社したばかりの青年時代は、天然ガスを汲み上げる井戸の整備も体験している。海老原堯社長は、4月に水野社長の後を継いで第3代社長に就任したばかりだった。

 海老原堯社長は次のように語った。

 「阪神大震災の日、私は48回目の誕生日でした。ガス事業では保安の確保が一番大事です。当時、京和ガスのガス管は鉄管が主だったんですが、阪神大震災以降は、ポリエチレン管(PE管)化を進めています。 PE管は弾力性があって地震に強いので、安全なPE管に切り替える工事を進めています。昭和33年7月、江戸川台で千葉県住宅協会江戸川台出張所のガス事業部が発足した時、ガス導管にはエタニットパイプ(石綿管)を使っていた。このパイプは、たわみがないので下を掘られると、ぽっきり折れるので地震に弱い。導管から家庭に入る支管には、白ガス管と呼ばれた鉄管にアルミメッキをしたものが使われましたが、住宅協会はメッキをしない黒ガス管を使ったので、京和ガスが引き継いだ時はボロボロになっていた。江戸川台団地のガス導管、支管の修復には非常に苦労しました。その上、第1次オイルショックが突発して、天然ガスの仕入れ値と売値がほぼ一緒になって、赤字となった。あの時は大変でしたね。お客様のご理解をいただいて、なんとか克服出来たことは終生忘れません。」

赤城神社に慰霊碑を建てる

 平成17年11月19日。流山7丁目の海老原家を訪問し、静子夫人と、次男廣雄さんから、家庭での海老原信二の素顔を伺っていた時である、

廣雄:父は14歳の時に、車の免許を取ってます。無事故無違反だと威張ってました。
静子:煙草は吸わないで、慰霊碑を建てたんですよ、そのお金で。
え、慰霊碑を?

赤城神社の境内に建つ慰霊碑の写真
赤城神社の境内に建つ慰霊碑

廣雄:煙草は吸わないんですが、吸ったつもりで、毎日そのお金を貯めておいて、戦争で死んだ人たちの慰霊碑を建てたんです。
建立費は、いくらぐらいかかったんでしょう。
静子:人に言わないから、あの人。分からないんです。
廣雄:お金のことは言わなかった。あの時、群馬県の赤城山の麓の赤城神社の本社の方へも何度か足を運んで相談してましたね。父が残したもので、形として残っているのは、ガス灯と、会社と、慰霊碑かも知れませんね。

 帰途、廣雄さんに連れられて赤城神社の境内に入った。苔むした38段の急な石段の登り口の右手に、高さ3メートルに近い「慰霊碑」が建っている。慰霊碑の文字は、靖国神社宮司・池田良八謹書とある。流山の石匠森田屋・森田泰教氏によると、「この石は、稲井(いない)石といい、北上川の下流の稲井から採掘された石。別名・仙台石と呼ばれますが、現在、採掘されてないので、貴重な石です。」と言う。

 石碑の裏には人名がぎっしり彫り込まれている。建立者・海老原信二、布佐石工・大塚重男、流山鳶職・恩田重雄、とあり、戦没者の氏名は、流山33柱、根郷36柱、加岸25柱、加台17柱、三輪野山12柱、西平井14柱、鰭ケ崎21柱、木10柱、合計168柱の名前が彫られ、その最上段に、慰霊碑建立の趣旨が次のように刻み込まれている。

 「昭和12年7月より昭和20年に至る世界大戦は、全国の主要都市を廃墟と化し8月15日終戦となりました。この戦禍で戦没者と被災者は数百万人に及び国民は精神的荒廃と饑餓に苦しみ悲惨その極に達しましたが、よくその渦中から立ち上がり、日本民族の叡知を結集し、努力を積み重ねて見事に国家復興の偉業を達成しました。然し現在の平和と繁栄は戦火の中で身を挺して祖国護持の為一片の桜花と散った方々の、献身と守護の賜により実現し得たのです。この大戦で友人知人を失った一人として、その忠誠と勲功を讃え、永く英霊のご冥福を祷ります。ここに報恩感謝の萬一を顕すと共に、永世の世界平和を念願して、終戦33年に当たり、元郷社赤城神社々地内に故父繁吉の友人新井守太郎翁の指導を得て、この碑を建立します。昭和52年7月15日」

 京和ガス株式会社の初代社長、故海老原信二は、誠を貫いた産業人であった。郷土愛の強い流山っ子であったことを、記者は再確認したのである。

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