ぐるっと流山 杜のアトリエ黎明の軌跡展

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ページ番号1019208  更新日 平成30年8月15日

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写真:杜のアトリエ黎明の入り口

 平成30年8月10日(金曜日)から、杜のアトリエ黎明で「杜のアトリエ黎明の軌跡展」が開催されています。
 明治~大正期における有数の事業家であり、菱田春草ら多くの芸術家を支援し、自らも俳句・文学・写真などの芸術・文化活動に優れた才能を発揮した秋元洒汀ゆかりの地であった宿(しゅく)と呼ばれる地域に位置する杜のアトリエ黎明。洒汀の長女である画家で歌人の秋元松子と、その夫である洋画家の笹岡了一が戦後間もない頃から、創作活動とともに後進の指導にあたった歴史的な場所でもあります。

写真:展示風景

 洒汀は、醸造業の傍ら流鉄の創立発起人筆頭として資金面を含めて鉄道開通に尽力。また、赤城神社に多くの寄進を行うなど、地元に貢献されました。一方で、少年期から文学への情熱を燃やし、明治時代に初めて個人句集「胡沙笛」を出版するなど、俳人・小説家として優れた才能を発揮し、多数の作品を発表し続けました。また、文芸だけに止まらず自転車、写真などの文芸以外の分野においても趣味のレベルを超えた活動を展開しました。

写真:秋元洒汀所蔵作品録などの展示

 洒汀は、多くの芸術家へ慈愛溢れる支援を行ったことでも知られ、中でも、眼病に苦しみ、若くして亡くなった日本画家・菱田春草に目をかけ、惜しみない援助を行いました。春草の代表作「落葉」「黒き猫」(ともに国指定重要文化財)などは、制作当時、秋元洒汀家の所蔵でした。

写真:松子晩年の作品「枯れ葉の詩」を鑑賞する来館者

 洒汀の娘・松子の幼少期、実家の家業は順調で、松子は洒汀を通じて当時の著名な文人・芸術家と多くの交流をしました。短歌会「春草会」が流山の松子宅で開かれた際は、竹久夢二らが流山を訪れ、江戸川の舟遊びに興じています。会のメンバーであった芥川龍之介はこの時欠席し、後日、芥川から松子に、歌集謹呈の御礼と会欠席の侘び状が送られています。

写真:「枯れ葉の詩」平成5年・松子94歳の時の作品

 昭和10年、笹岡了一と結婚した松子は、了一の3度の軍への召集など、戦時中の苦しい時期を乗り越え、戦後は堰を切ったように、二人三脚で流山の美術運動をスタートさせます。この地からスタートした二人の活動は、やがて、流山市文化協会、さらに、流山市美術家協会設立へとつながっていきます。
 今回の企画展では、こうした秋元家の3人の活動や業績を解説パネルや写真などにより紹介しています。秋元松子の代表作である5点の絵画「くじゃく鳩」「絵のある静物」「花籠」「巣」「枯れ葉の詩」も合わせて展示。来館された方は、特に、松子晩年の作品である50号の大作「枯れ葉の詩」の前で足を止め、鑑賞する様子が多く見られます。

写真:庭園内の校倉

 クスの巨木をはじめとする大樹に囲まれたアトリエの庭園には、明治40年頃、洒汀が奈良東大寺三月堂の校倉(あぜくら)を模して流山の宮大工に造らせたという、三角材の校木(あぜき)を井桁に組み上げた様式の通称「校倉」があります。永年の風化により退色していますが、扉の内側は、京都の日本画家・三宅呉暁(みやけごぎょう)の手による梅と菊の華麗な絵で彩られています。戦後、了一と松子が、旧母屋に隣接し宝物殿として使われていたこの建物を庭園内に移設しました。戦時中は、屋根のこけらは供出を余儀なくされ、風雪にさらされていましたが、昭和55年に改修し、現在の形に整えられました。格調高い校倉の建築が庭園の歴史の重みをさらに深く感じさせてくれます。

写真:庭園内のティーテーブルでお茶を楽しむ来館者

 展示は8月19日(日曜日)まで、9時~17時に開催しています。家族が集まって祖先を思い、昔を振り返ることの多い夏。杜のアトリエ黎明ゆかりの3人の先人を通じて、みりん醸造の隆盛が支えた流山の文化・芸術の奥深さを感じ、歴史の一面に触れるひとときを過ごしてみませんか。

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